2.74
5 404件
4 98件
3 65件
2 105件
1 563件
合計 1235
読み はなことあん
放送局 NHK
クール 2014年4月期
期間 2014-03-31 ~ 2014-09-27
時間帯 月曜日 08:00
出演
『赤毛のアン』などに代表されるモンゴメリーの日本語訳版を著し、明治から昭和の混乱期に翻訳家として活躍した村岡花子の生涯を描いたドラマ。
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名前無し

もう書かないつもりだったけど、最終回を迎えて、最後に批判的感想を書きます。けじめをつけなくては終われないのでお許し下さい。
全体を通して基本的に脚本家に対する批判的感想です。
楽しんで観ていた方、傷つきやすい方は読まないで下さい。


【脚本】
映画は監督の物。テレビは脚本家の物。と言われるぐらいテレビドラマでは脚本家の権限が強い。
「いい脚本から悪い作品が出来ることもあるが、悪い脚本から傑作は出来ない。」という格言もある。
脚本は作品の成否の8割を占める重要なものであり、ドラマを生かすも殺すも脚本次第と言うのは決して大げさな言い方ではない。

今作におけるその脚本の酷さは、目(耳?)を覆わんばかりでした。

脚本を描く上での基本の一つとして『説明セリフは書いてはいけない。』というのがある。にも関わらずドラマは、すべてセリフで説明して物語が進んでいきました。過程を描かず、すべてセリフで説明して終わりです。

面白いわけありません。

『脚本協力』なるスタッフがいたようですが、なにをしたのでしょうか?
メインライターの指示を元に、実際書いたのは脚本協力の人なのかな?
たぶんそれで間違いない。そうじゃなかったらおかしい。50超えた大人のベテラン脚本家がこんな陳腐なセリフは書かない。と信じたい。
とすると、脚本とクレジットされた方は、脚本協力に書かせただけでチェックも推敲もしていないのか?劇中のヒロインと同じように。

この「脚本協力者」は、人間の持つ多彩な感情も、明治大正昭和の歴史の流れも、仕事とか、人が生きる意味について、なんてことを、知ることも考えることも出来ないうら若き方々と思われる。

そりゃあ、史実を扱った人間ドラマなんて書けるわけありません。


【プロデューサー】
『制作統括』ってクレジットの人。この人がプロデューサーのトップですかね。
この方の罪も脚本家と同じくらい、とても重いと思います。

酒の席での仕事の依頼に始まり。
「当てましょう!(良いドラマを作りましょう!ではなく)」と言ったのも。
恋愛要素を増やしたいと提案したのもこの人とか。
話題さえ集められれば良いと、ライダーやら壇蜜やらを放り込んだのもきっとこの人。
極めつけは茂木爆弾投下。

あ、もちろん、その要望を聞き入れて、面白い脚本にするのが、プロの脚本家の仕事。
でも、その脚本家の力が足りず、面白く出来なかった今作。
それに対してダメ出しするのも、プロデューサーの仕事のはず。
「こういうことじゃなくて、もっとちゃんとした恋愛書いてよ」とかね。
それをしなかった?出来なかった?

これで良いと思っていたなら、そのセンスはすでに死んでいる……。
それとも視聴率が良いから、なんでもよくなったのか?元々良いドラマを作ろうなんて気はサラサラなさそうだしね。

作品が崩壊へと突き進んだのは、このプロデューサーの責任とも言えるのではないか。


【演出】
演出家も演者も、脚本が酷いことに気がついていただろう。
意味を解釈することが困難な脚本を渡されても、まともに撮りようがない。
演じるためには脚本の解釈をしなくてはならないし、演出するのも同様だ。
演出家は脚本家への直訴をしたか、あるいはプロデューサーにダメ出しを要望したと思いたい。
しかし、何らかの理由(例えば高視聴率だったり、時間的制約だったり、もっと巨大な大人の事情だったり?)でその願いは叶えられなかったのではないか?
そもそも2話先も考えないで書いているような脚本、直しようがなかったのが実情かもしれない。

甲府編が終わった頃から、あきらめにも似たムードが漂い、もうなるようになれ!と言わんばかりにヤケクソ的演出が目立ち始めた。


【演者】
演者も(次に書く老けメイクに関しても)脚本被害者と言えなくもない。
良い脚本は、演者の演技を5割増しにも10割増しにも見せるもの。
悪い脚本は演技力でカバーしないと視聴に耐えうるものにはならない。
今回、多くの演者は残念ながら演技力でのカバーが出来なかった。
コネで放り込まれたり、役柄を表現できなかったり、実力不足は否めない。
ならば演出家に鍛えてもらえばいいのだが、それもなかったらしい。
なにせ演出家が、このつまらない脚本にやる気を失くしてしまったのが原因だろう。
演者が批判の対象にされるのには、多少同情の余地があると個人的に思う。


【老けメイク】
いったいいつ何年後にワープするのか解らない脚本では計算の立てようがない。
第1話の特殊メイクによる老けメイクも、おそらく前作の批判を受けて、プロデューサーが調子よく「特殊メイクを使おう!」とでも言ったのだろう。
しかし、行き当りばったりの脚本に、一体どこから特殊メイクにしていいのかさっぱり分からなくなった。
最後の4週間だけで13年以上も話が飛び飛びに経過しては、徐々に老けさせるなんてことは出来なかったのだろう。
撮影は順番にできない。午前中に花子の家で1939年、午後は45年と46年、夜はかよの店で41年の撮影といった具合にやられては時間のかかる特殊メイクなんてヒマがない。


【NHK】
日本全国で見ることが出来る唯一の局である。
国営放送であり、国民から受信料を頂いて成り立っているのである。
ドラマなのだから、面白くなっていれば多少の脚色には目をつぶる。
しかしこのドラマは史実の人物の物語を、話題性だけを求めて歪め、つまらなくしただけではなく、その精神をも改悪しているところが大問題だと思う。

あまちゃんの大ヒットで関連グッズが売れまくり、一部の人間は大いに潤ったのだろう。花子とアンが二匹目のドジョウを狙ったのは「当てましょう」といったプロデューサーの言葉だけでも明らかだ。

それを黙認し、垂れ流したNHKは詐欺レベルの重罪を犯しているとも思う。


【視聴率】
テレビ業界は視聴率が全てである。このレビューサイトだけではなく、他のサイトやブログにおける批判なんか、業界内では気にも留めないでしょう。
高視聴率だったこのドラマに関わった人は、実力があろうがなかろうが高視聴率人間として、しばらく引く手数多な生活となるのは間違いないだろう。

こうしてテレビドラマの悪循環はつづく。


【あとがき】
私的事実は、最初から最後まで欠かさず観たテレビドラマの中で、間違いなくワースト1だ、ということだけです。
あまりにひどいので見続けてしまった。あまりにひどいと思ったので、レビューを書かずにいられなくなった。
視聴率には関係ない視聴者ですが、制作サイドの思惑にまんまと乗せられたのかもしれません。
マッサンはつまらなかったら途中退場しようと思っています。
もう花アンウツと同じにはなりたくありませんから。


全くの個人的憶測による感想です。
悪意他意はありません。


最後まで読んでいただいた方、ありがとうございます。
長文駄文失礼しました。

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名前無し

【プロローグ】
初っ端の「花子と呼んでくりょう」から違和感ありました。超田舎に設定された甲府の、劇中では本の一冊すら読んだことのない女の子が、一体どういう理由で自分のことを「花」ではなく「花子」と呼んで欲しいと言うのか?わからんなあ…でも、その謎は今後見せてくれるんだろうと視聴し始めたのが運の尽き。まさか、こんな朝ドラになるなんてその時は思いもしなかった。


【女学校時代編】
「ぐっどもーにんぐ」「ぐっどあふたぬーん」「ぐっどいぶにんぐ」が言えれば英語なんてちょろい、みたいな理由で女学校に入れたのも違和感。いくら昔のお話だからって甲府の貧乏農家の娘がゴリ押しだけでお嬢様学校に入れるのか?このへんですでに史実が気になり始める。もちろん史実は全然違い……

ラブレター事件もなんのこっちゃ?何この展開?まあいいか始まったばかりだし…吉高に代わったら変わるんだろうと無理くり納得してみる。

で、代わって少し勉強しだして、蓮子が登場して腹心の友になるまでは少し良かった。
しかし、今思えば女学校時代にもっとやることがあったはず。蓮子や他の優秀な生徒(片山廣子やら色々いたわけでしょう)や外部の知識人たち(佐佐木信綱とか)の影響で日本語にもっと磨きをかけるとか。
兄妹格差も今週やる話じゃなかった。女学校時代にやれば、花子も兄妹の犠牲のもとに自分があることに気がついてもっと精進できただろうに…史実の花子はそれを分かっていて女学校時代から華族などのお金持ちの子供の家庭教師のアルバイトを掛け持って、両親にちゃんと仕送りしていた。

女学校を卒業して、さあ翻訳家村岡花子の物語が本格的に始まる!と期待した途端……はあっ!?……甲府に帰って小学校の先生になる?どうして?
花子の、本当の迷走が始まる……


【甲府迷走編】
甲府に戻るのだって何か意味があるのだろう…と信じる気持ちはまだあった。

ところが…甲府編は何も心に残っていない。見合いだののパルピ話は全く意味が分からなかった。告白させて失恋させるって…罰ゲームなのか!?
で、時折挿入される白蓮の福岡時代の話も、なんだろこれ?村岡花子の話と関係あるの?と違和感アリアリ。でもそっちのほうが面白く見えるんで益々タチが悪い。
生徒に花を贈られる場面でも一切の感動は無かった。花子が先生を真面目にやっているように見えなかったからだ。


【東京意味不明編】
でもまあ、これから始まるあなたの物語……ようやく花子の翻訳人生が始まり、面白くなるだろう。一ヶ月くらい無駄だったけど、半年の長丁場、それくらいは許してやろう…と。

だが……その後の物語は記憶に留めておくのが不可能なほど錯乱している。
居眠り、漬物石の辞書、5・6年たってのパルピ、結婚してたの知らない職場、醍醐、ミスタードミンゴ、村岡弟、村岡の元妻、王様と乞食、次々と出てくる不自然な設定、疑問だらけの展開、ご都合だらけの物語進行…

花子の翻訳人生なんて描く気がないのか!?
英英辞書だけで翻訳作業……そんなバカな!
白蓮側の相手、宮本に全く魅力がない!
確かに伝助だけはこのドラマで唯一人間味のある人物だが、ドラマの中の立ち位置のバランスが悪い。

そして関東大震災。村岡弟の死、かよ…架空の恋バナやめてくれ。史実の村岡弟の名誉のためにも。村岡弟だけじゃない。村岡父も白蓮も宮本もその姑も…何よりも村岡花子!何もかも実際に一生懸命に生きた人たちを貶めるドラマなんだな…花子とアン!

プツン……

ここで私は完全にこのドラマに期待するのをやめました。遅かった、何もかも遅かった。民放ならとっくに見るの止めてた。だけど一日15分の朝ドラはつい見てしまい、もしかしたら面白くなるだろうと期待してた…愚かだった…

【オワコン編】
まさか、子供の死を見ても泣けないとは思いもしなかった。
人非人とか不謹慎って言う人もいるかもしれないけどさ、本当に心の底から作り物にしか見えなかった。人の死を扱った映画やドラマでこんなに酷い脚本、演技、演出は見たこと無いな。と…(ドラマはさておき、映画は結構いっぱい見てる方ですよ私、たぶん)
実は私、子供を持つ親なんです。それでも泣けないってんだから…

花子の立ち直り方も史実無視の最低最悪。
醍醐と吉太郎の話…語りたくもない。

来週はまた一気にワープ大会?ももが画家か朝一と再婚して、その子供を養女にもらって、戦争が始まって、飼ってた犬を戦争にとられて……動物と子供、泣かせのお約束。感動の押し売り。泣けないだろうなまた。
史実では犬の話は1938年。と言う事は9月の一週目からはようやらやっとアンの原書を渡される話になるのかな。いまさらもう遅いけどね。(遠い目)


【これからどうなる妄想の翼編】
始まった頃はね、花子の心の中に勉強を重ねるうちに脳内に想像の女の子が生まれて、(二重人格ではなく)その娘と対話しながら成長してさ、アンの原書を渡された時、想像の彼女こそアンだったのだ!って気がつく話?そんな話を妄想してたよ。

翻訳作業の妄想…『アン・オブ・グリン・ゲイブルズ』だったら『緑のゲイブルズのアン』って何かしら?
『ゲイブルズ』って単語、アン未読で英語に疎い私は知りませんでした。アンを読んだ人や英語出来る人には簡単な単語なのかしら?

花子、まず辞書で調べる→切妻屋根→って何?→建築用語なのか?→ちょうど近所で大工さんが家を建てている→話を聞きに飛び出す→大工の棟梁は「何だおめえは?女が建築現場に足入れるんじゃねえよ!」とか言われて相手にされない→それでも食らいつく→あの手この手(ここが脚本家の腕の見せどころ)でついに棟梁を降参させる『姉ちゃんには負けた。切妻屋根ってのはな…』と、一つの単語を理解するまで何日もかかっておかしくないのが当時じゃないの?

プリンスエドワード島…一体どんなところ?生活習慣は日本と同じなの?教育制度は?アンが食べているのはどんな食べ物?こんな単語の物は日本には無いわ!と、わからないことだらけ。インターネットも何も無い当時の日本では調べることが難しかったはず。
そんな困難を乗り越えていく花子が見たいな。

はっ!?期待しないって言ったのに期待してる…

更に妄想の翼……
空襲で燃えさかる住宅街。
花子はあの時の棟梁と会う。
自分の建てた家が燃えているのを見て泣いている棟梁。
「姉ちゃん、俺は戦争が終わったらまた家を建てる!建てて建てまくる!だから姉ちゃんも負けるなよ!アメ公の言葉なんざ、全部日本語にしてやれ!」


【エピローグ】
私の周りにいる人たち、あまちゃんの時はこんなに見てる人がいっぱいいるんだあ!と思うくらい、会う人会う人と話ができたのですが……視聴率がいいはずのこのドラマ、誰も見てません。誰とも批判話も共感話も出来ないのでストレスが溜まりまくりになったので吐き出させてもらいました。

上の方で長文に対する批判があったみたいですが、これっきりにするつもりなんで許して下さいませ。

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名前無し

1話と今日の回、見比べてみたけど全然違う(笑)
1話では、家の中燃える→花子必死に消す→美里出てくる→窓ガラス割れる
なのに、今日の回では
花子悠長にラジオつける→美里出てくる→窓ガラス割れる

老けメイクもなかったことになってるし、なんだこれ(笑)
作り方が本当に雑でいい加減なんだなぁ。
最初のシーンに繋げたいならちゃんと確認ぐらいしろよ。視聴者なめすぎ。

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名前無し

今日のももの姿は、夫の心変わりをあっさりと許して身を引いた香澄を彷彿とさせた。花子に都合の良い展開にするために、達観して悟りの境地を開いた人みたいになっちゃってる。

登場人物が不満を口にしてないから、花子に感謝してるから、これは残酷なことなんてひとつも描いてないドラマなんです、みたいな論調をたまに見るけど違うんだよなと思う。

登場人物が平気そうだから平気、なんて単純な話かな?普通だったら傷付くでしょとか、辛いでしょって場面でそれを描かないでいるから良い場面も「綺麗ごと」「取って付け」と言われるんだと思う。生理現象と真逆の事が当たり前のように起こるから、なんだか気持ち悪い。

かよが女学校で雑巾掛けしたシーン、かよの劣等感を描かなかった。脚本家はなんてことないシーンだし描く程の事じゃないと思ったのかもしれない。でも持たざる者からしたら、描かずにはおれない大きな事だ。自分が汚い格好して雑巾掛けてる横を綺麗な着物を着た姉が通り過ぎるなんて、一生残る苦い記憶だと思う。
このシーンを見た時、妙に引っ掛かったのをよく覚えている。そういう場面がその後も頻発して「優しい」と言われるこのドラマの根幹が私の中で覆ってしまった。

結局、この脚本家は持つ者の視点からしか物事が見えないんじゃないかと思ってしまう。持たざる者の傷がわからないから、描くべきポイントを見逃す。人物達が平気そうなのは、弱者の気持ちがわかってないから描けていないだけなのではないか、と感じてしまう。
だから本来持たざる者だった花子が努力で持つ者になった…という半生のはずなのに、なぜかそう見えない。兄妹との比較で持つ者としての鈍感さばかりが目についてしまうのではないか。

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名前無し

2014-09-27 22:26:30 の方に賛同します。最終週の録画をまとめ見し、原案『アンのゆりかご』も読み終え、まとめを投稿しようと思ったら、基本的なことは言い尽くされていました!

ここは、けなしあいの場ではなく、真摯な感想が多かったので、ネットでの初めての掲示板投稿を先に試みた次第です。いろいろな意見も楽しめましたので、皆さんがまだ書き込んでいるうちにと投稿します。ただ、時には応酬や、アンチとファンに二極化しての直接の反論も見受けられたのが残念でした。ドラマで白蓮が言っていた「どうして一色になれるの?」を引用するなら、感想は虹色で良いと思います。是非、このサイトが有意義に存続されますよう!

ついでに、他のドラマものぞいてみたら、気に入ったのに不評だったドラマは、「なるほど。まあ、私は楽しめたからいい」と思い、敢えて逆の感想を書き込む必要は感じませんでした。また、低視聴率でレビューも少ない割に、自分が高評価したドラマの評判が良くて、嬉しかったケースも。「花子とアン」の場合は、次第に不満が高じたので、自分の感想は例外なのかとつい不安になり、書き込むに至り、ネット上での共感で気持ちが安定したという訳です。2014-09-28 10:27:40 の方のコメント、感謝しております。

私としては、花子が村岡氏からもらった辞書を雨の中、投げ捨てようとした時から、このドラマに疑問を抱き始めました。(日比谷図書館にしかない、数万円もする辞書を借りるために通いつめた経験があったので) 子供時代や女学校の初めは、子役やブラックバーン校長など、シーンによっては普通に面白かったですし、山梨の農家は富士を臨む”縄文の里”みたいで大好きでしたが。

『アンのゆりかご』を読み、さまざま疑問は解けました。何故、花子の父親がクリスチャンになって静岡から山梨に行ったのか、何故、花子の娘が空襲が激化する東京へ戻ってきたのか、花子は自分の家族にどういう感情を抱いていたのか、花子が務めたのは山梨の英和女学院だった、ほうとう鍋は、一家団欒を味わえなかった花子が山梨の教え子の家庭で経験した味だった、『王子と乞食』は、息子を亡くした後に翻訳した、多くの翻訳を成し遂げた花子はたゆまぬ努力を重ねた、女性の地位向上のために多くの優れた女性たちと交流していた、白連との文通では深く心を通わせていた、『赤毛のアン』翻訳は日本の若い女性たちに家庭文学を、という熱意とカナダの人たちに対する想いが込められていた、空襲時には原書と原稿を風呂敷に包んで避難した、戦後、GHQの米人に「ポーシャのよう」と感心されたのは、放送局ではなくてまさに裁判の場だった!

この原案で、ドラマで印象深かった女学校の校長が言っていたことも再確認。また、戦後の、白蓮による反戦メッセ−ジも引用されており、得心しました。もちろん、村岡花子さんの実像は、多面的に描かれており、敬服するとともに納得しました。

結局は、史実からかけ離れたドラマとなり、「このドラマはフィクションです」の一言で片付けられています。フィクションと割り切って楽しむ方は多くとも、実在の人物をモデルとして、実名と『赤毛のアン』を表面に宣伝を繰り広げた末、原案をなし崩しにしています。本来なら、フィクションを加えて、人物の造型に深みや陰影を与えるべきでは。ここまでフィクションにするなら、複数のモデルを参考にオリジナルな人物設定でよい。想像と創造が巧みに入り交じったフィクションなら堪能もできますが、事実のパッチワークに人生の真実を織り交ぜられなければ、ただのフィクション=絵空事に終わるだけです。実在の人物(特に村岡氏・宮崎氏)の影が薄く、ワンパターンの演技しかこなせず、架空の人物(朝市・妹かよ・兄やん・醍醐さん)の方が活き活きとしていたのが残念。

制作サイドには、実在モデルがベースのドラマの場合、フィクションの定義を再検討していただきたい。モデルがなくても、優れたフィクション=虚構にはリアリティが伴います。モデルがいても、薄っぺらいフィクションは、たとえ役者が奮起しても空疎なだけです。(別種のドラマですが、感心したのは山崎豊子原作の「運命の人」です。モデルを美化はしていても、リアリティ抜群、時代背景が厳密、問題提起が明確で、視聴者を啓蒙してくれます。見終わってから、関連図書を10冊ほど読みました。)なお、ノンフィクションドラマという分野もあり、ドラマ企画者の、何をどう訴えたいのかという性根が重要です。(最近では、孫文を支援した梅屋庄吉を描く「たった一度の約束」が見応えありました。梅屋は、白蓮が添い遂げた宮崎氏の父・宮崎滔天らと辛亥革命を支援しました。)

朝ドラにはそこまで期待しない、という感想も多いですが、NHKの朝ドラは社会的影響大です。重苦しいのはイヤ、気軽に楽しみたいのは私も同じで、「おひさま」「梅ちゃん先生」は好きでした。でも、楽しく面白いだけではなく、喜怒哀楽、戦争、貧困、犯罪、家族間でのわだかまりなど、半年もの間には、いろいろな要素が盛り込まれ、役者の真剣な演技のケミストリーが、心に残るシーンを造り出します。主人公が頑張り、葛藤、努力を経て、いろいろな人とふれあいながら成長していく姿を描くのは当然ですし、それがなければ逆に半年間も見続けるのはしんどいです。

NHKは、エンターテインメントであっても啓発の要素にも留意すべきで、例えば、戦争を含む現代史、差別問題、社会主義やキリスト教信仰などの思想を曖昧にすべきではありません。率直に言えば、今のNHKに寄せられている、公正中立な観点から番組制作ができるのか、という疑念に真剣に向き合ってもらいたい。不信感をかわすために、オブラートに包みさらに粉飾した無難なドラマを視聴率主義で制作するのは、考え違いでしょう。

ドラマのディテールについて感想を述べあうのも、このサイトの妙味で、都鳥さんには感服いたしました。最終回について言えば、パーティで昔の編集長が語る「非凡に通じる洗練された平凡」は、『アンのゆりかご』によれば村岡さん自身が書いた卓見です。白蓮と宮本が引用する「愛すべき懐かしき世界、、、」は、数年前に出版された新装版『赤毛のアン』での補訳箇所で、村岡さんの初版にはなかった文章ではと思いました。いずれも、素晴らしい言葉なので、さらっと流されたのは残念に思いました。意を尽くした文章でようやく表現できることをドラマで表すのは何と難しいことかを痛感、またその困難さに終始、翻訳を通してチャレンジしていたのが村岡花子さんだったのだ、と再確認もし、今日のドラマ制作のプロの方たちには文学的表現に勝るとも劣らない映像的表現に、たゆまず精進して欲しいものだと強く思いました。

大変に長くなりまして、すみませんが、どうぞ、ご寛容にお読みいただければ幸いです。

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名前無し

ごめんなさい! このドラマはかなりつまらなかった~!
赤毛のアンは一冊読んだきりで村岡花子さんのこともよく知りません。けど、児童文学者で子どもたちのことを考えてきたひと、ということで、ごく普通のほんわかと、心温まるお話かと思ってました。
 
でも、ヒロイン以外に降りかかる不幸がキツい~。エグい~!しかもヒロインはそのこと自体を知らなかったりするので、必要あるんかな?と・笑 それどころか、人の不幸をバネにして自分の道見つけたり幸せになったり~。うそ~ン! そんなんかわいそうや~ん!…と見ながら悲鳴あげちゃったりも何回か。
特に、前妻が夫の心移りを知り、「死ぬのを待たれるのは嫌なの」と言うところとか。ももの北海道ゆきのいきさつとか。弟が妹に告白した直後、圧死焼死とか。海に行きたかったのに行けずに子どもが亡くなるところとか。同じ家に住んでいるのに実の母子が「おば様」「美里ちゃん」と呼び合い、実母が「お母様」の衣食住の世話をしているのとか。美里直子は実姉妹なのに、それぞれの言葉使いにくっきり育ちが現れちゃうのとか。で、フォローがnothing。

史実なのかも知れないけれど、そこはフィクションで優しくハートウォーミングにしてほしかった~。よくあるお話で全然かまわないので、ほんとベタに普通に。
お話自体がさらっとしているのは大歓迎なのですが、不幸が重く苦く、それに対してヒロインが他人事でクールな態度を取るので、「え、そこはもっと思いやりをもとうよ!」とさらに重くなってしまって。ヒロインが優しかったりすると、良かった良かった!とさらさら~と流れていくんですけれど。。。。

吉高さんは、女の子としてとても可愛いし魅力的だけど女優ではない。。。ですよね? タレントさん? 遠い昔みた松田聖子とか松本伊代とか堀ちえみとかのアイドル映画・ドラマを懐かしく思い出しちゃいました。最近、AKBなどにしてもみんな器用で、「演技下手だな~」としみじみするひとが少ないなか、吉高さんは往年の正統派アイドルっぽかったです。

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名前無し

アンシリーズの愛読者です。
でもアンそのものが好きと言うのではなく登場人物で言えばマリラやマシュウ、舞台となったプリンスエドワード島やその世界観に魅せられ何百回と繰り返し読みました。
自然に村岡花子訳の本を読んで育ち、村岡家のオープンハウスにも何度か伺い今は亡き娘さん、原案をお書きのお孫さんにも何度かお会いしています。
花子とアンの原書との出会いはうっすらと知っていたものの、「アンのゆりかご」で初めて、花子が英語を学んだ経緯やアンが日本で世に出るまでの経緯を知り驚きと感謝の連続でした。

花子がミスショー(ドラマではスコット先生)からアンの原書を渡されなくても、戦後誰かが訳したかもしれない。でも赤毛のアンのタイトルにもならず、ここまで日本の少女たちに長年支持された物になったか疑問です。
本国カナダやアメリカでは少女よりちょっと大人向けの読み物で日本ほどスタンダードな読み物として位置付けられていません。誤訳が多いとされている花子訳ですが後の完訳ですら村岡花子訳の影響は否めません。
カナダはおろか海外に1度も行った事のない花子の翻訳(しかも戦時中)は偉業だと思います。

他の兄弟を犠牲にしてまで英語を学んだのも父が当時としては変り者でなければなかったことでした。

父の事、結婚、息子の夭折、戦時中の活動、娘を養子にした事など花子の偉業を語るには避けては通れない事でお孫さんは隠しておらず、それをドラマではうやむやにし変になっているように感じます。
白蓮とは友人でしたが、このドラマほど特別ではなく他にも多くの著名人と交流があります。

花子も百蓮もある意味ではドラマチックな生涯でアンのファンも多いから、全て絡めればヒットすると番組制作者は目論んだのかもしれませんが、花子そのものの人物像が薄く違い過ぎるのと脚本その他に花子やアンに対する愛や理解不足が見られ残念でなりません。
私も「アンのゆりかご」を最初読んだ時「ドラマや映画の脚本になりうる作品」と思ったものでしたが、もう花子の生涯の映像化は難しいのかと悔しいです。

どうかNHKは責任を取ってヒストリアなどの歴史番組で本当の村岡花子を放映してください。(確か新島八重もやりましたよね)

じゃないと気が収まりません。
長文すみませんでした。

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名前無し

このドラマはつまらない。なんでだろうと考えて、原因の一つは、知的欲求がぜんぜん満足させられないことだと気づきました。
村岡花子と白蓮という当代の知識人が主人公なのにもかかわらず、知的なところが、どこにもないんですから。

知的といっても、そんな高尚なことを求めているわけではなく、翻訳やってるなら、翻訳の方法とか、どんな言葉が訳しにくいのかとか、辞書の使い方とか、少しぐらいは見せてもいいでしょう。
歌を作ってるなら、歳時記のこととか、何を見てイメージするのか思いつくのかとか、言葉をたった三十一字にどうやって整えるのかとか、少しぐらいは。
少しは、「そうだったんだ、なるほど」「初めて知ったわ」などと興味を持たせてくれなければ。

今までの朝ドラでは、ほとんど、主人公の仕事にもとづくウンチクが盛り込まれていました。
「ごちそうさん」はもちろん料理。知らない料理や珍しい料理の作り方など「ほー」と思いながら見てました。
「あまちゃん」は海女さんの生活や潜水の知識。これも「ほー」でした。
「カーネーション」はモード。戦後、海外のトップモードが日本でどのように紹介され受け止められていたか初めて知りました。ミニスカートの流行がどうやって起こったのかも面白かった。

こういうことをするためには、脚本家の相当な取材と勉強が必要だと思います。でも、いい話にするためには必要なことと、多くの良質なドラマでは、その労を惜しんでいません。
ところが、今回ときたら…。

マンガの話ではありますが、「のだめカンタービレ」の作者は、音楽はずぶの素人で、まったく知らなかったと聞いています。それで、あれだけの雄大で考証も綿密な一大音楽ドラマを作り上げているのですから、その苦労は並大抵のことではなかったでしょう。
この努力の100分の1でも今回の脚本家がしていれば、素材を生かして面白くすることができたのに、と思うと、ほんとに残念です。

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名前無し

正直、このドラマのトンデモ具合はここ数年で断トツです。

○まだ幼ない英語を知らない少女が人の手紙を勝手に書き写してそれが成功するだけじゃなくて歌もスピードランニング並に暗記できる。
○製糸工場から女学校まで歩きで(?詳細は不明)で辿り着く娘。服がいい感じに破れてまるで角川映画の「復活の日」のような大仰さ。
○かなり良いところの令嬢がいきなり貧農の家に泊まりにいき、初めて見た人に対して「おかあさんと思っていいですか」
○警察に狙われてもいないのに4,5年勝手にまんじゅう屋と逃げ続ける父。その後のまんじゅう屋の行方はドラマ内では語られず。
○地主の息子が小作人の娘に遠慮しまくってカステラや羊羹まで用意してくれ、わざわざパルピ会なるものが開催される
○失恋で北海道へ行く少女。相手にはまだ会ったことがない。
○嫁の実家の借金までかえしてくれ、上げ膳据え膳のこれ以上ないほどの見合いをパルピ云々で台無しにする娘
○5,6年もそばにいながら、ももの捨て身のアドバイスもありながら、再三告白するシチュエーション練習はバッチリなのに告白できない朝市。
○朝市母もふじやもも、多分まわりの人、多数が朝市のはなへの気持ちを気付いているのに、誰もはなに朝市の気持ちを伝えようともしない哀しい現実。
○まだ無名のはなの短編小説が何故か分厚い豪華本で出版され、あの時代、甲府の田舎にそれが売ってあるらしい。
○たがか知り合いの夫婦の仲の良さが羨ましいだけで、遠方から甲府まで狂言しに来る女
○娘が北海道へ行くのも女工にいくのも顔色かえないおかあが贔屓にしてる方の娘が都会に旅立つ時「はなと過ごした5,6年間は宝物だった」と言う(他の兄弟の立場は?・・)
○姉の大事な高価な辞書を漬物石にする妹
○嵐の中、大事な原稿を前に窓を全開にする男・・
まだまだあるけど、目立ったところはこれぐらい。
とりあえず、ドラマを楽しむために今度はどんなすごい話が出て来るのかという方向へシフトしています。

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名前無し

何はともあれやっぱり良かったと思うぞ。
今の朝ドラなんかに比べたら同じフィクションが混じっているとは思えないほど素晴らしい作品だったと感じている。
それに去年の大晦日の紅白は花アンで始まって花アンで幕を閉じたような印象だった。吉高さんや仲間さんのやりとりが今でも頭に焼きついて離れないよ。

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名前無し

ドラマ坂の上の雲で財部役だった飯田と広瀬役だった藤本がそれぞれ、葉山伯爵役、編集長役でこのドラマに出演するということで見始めた花子とアンだったが、二つのドラマの次元の違いに愕然とする。これが同じnhkが作ったドラマなのか・・・坂の上の雲で貫かれていた人道主義、時代を生きた人々の魂、戦争の悲惨さ。映像のリアリズム。花子とアンでは残念ながらそのひとかけらも無かった。人命軽視(前妻の死の軽い扱い、関東大震災の被災者にリボンやワインをふるまう)、倫理観の欠如(辞書を漬物石、前妻の喪中に結婚式、不倫駆け落ち事件)。すべてにおいて最悪だった。飯田と藤本が出演するからといって軽々しくこのドラマを見てしまったことに深く後悔している。

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これはきついな~!
「花子とアン」は3ヶ月経った今でも、嫌な思い出としてのこっています。本当に面白くなかったし、感動もできないドラマでした。主演の吉高さんが演出家さんに「こんなのでいいんでしょうか?」とか脇役の女優さんたちがトーク番組などでがドラマの方向性がわからず戸惑っていたことを吐露していたことが印象強い。

紅白の「花子とアン」コーナーは非難でいっぱいになるからやめた方がいいと思う。去年、音楽コーナーに徹していた紅白の「あまちゃん」企画でさえもネットでは非難が多かったから。
しかも、中園ミホさんが審査員ですか・・
確か、「花子とアン」のドラマ終盤あたりにあさいちに出てきて問題発言連発しましたよね。
いくら「ドクターX」が人気だったとはいえあれは他局でしかも彼女以外の方も脚本を書いていた作品だし肝心の「花子とアン」のドラマ自体、何の賞も絡まず脇役の仲間さんや吉田さんが話題になったぐらい。向田賞や東京アワード賞等々の各賞を総なめにした「ごちそうさん」の森下佳子さんが審査員すべき。自分は本来はAKとBKとか別々にわけてどうこう言いたい方ではないけど、紅白さんはここ最近AKばかり贔屓してませんでしょうかね。

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ほんとですね。
私も、恋愛ドラマの名手と聞いていたので、せめてそれぐらいは、と思っていたら、各プロットがあまりに未熟・唐突で舌足らずなので、「??」と思うことしきりでした。白蓮のサブストーリーは、時間をかけた分だけ、まだいいかなという感じでしたが、宮本と恋愛関係になるところなんか、やっぱりぎくしゃくしてましたね。
他のドラマ(「やまとなでしこ」や「下流の宴」など)では、そこまでひどいとは思わなかったのですが。
こうしてみると、いまさらながら、あちこち綻んでたなあ…という印象。

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製作チーム同士の対抗意識は確かにあるようで、前作が視聴率が高いとプレッシャーがすごいそうです。ある記事によると、次の「稀」チームはそれに耐えられず、今作がコケて欲しいと願う関係者までいるとか(ひどいですね 笑)。
「花子と.」もあせったんじゃないでしょうか。朝ドラは苦手と腰の引けている人気脚本家を、視聴率が取れるからと敢えて起用し、「取りに行きましょう」とはっぱをかけた。脚本家も苦しかったと思います。札束横に置いてそれを睨みながらがんばった、と冗談めかして言ってましたが、苦渋の仕事だったことがよくわかる。
結局、ドラマは支離滅裂になってしまったけど、なんとか視聴率はクリアしてNHKの期待に応えた。でも、二度と朝ドラはやりたくないと言い、さっさと次の仕事に移ってしまった。このあたりを見ると、作家としての良心というのが少し感じられなくもないですね。放送当時は、メディアに派手に出ていろいろ発言するのが、あまり感じよくはなかったですが。

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このドラマの感想が、見る人の価値観や人生観を表しているというなら、そうかもしれないと思いますね。

たとえば、私自身は、がんばってる人が好きだし、自分もがんばって人生を切り開いているという自覚があるし、周りもそんな人が多い。そして、がんばる人が報われる社会じゃないといけないと思う。
だから、本当は摩擦や確執がたくさんあったはずの花子の人生、いろんな人生の戦いを乗り越えてきたはずの花子を、そういう面をすべて捨象して、ただきれいきれいに描いたこのドラマを、とても嘘くさいと思うし、人物もとても現実を生きている人間に見えない。

それよりむしろ私が興味深いのは、「がんばるのを見せられるのはしんどい」「重いのはいや」という感想が多かったこと。それこそ、最近の社会の傾向を表しているのではないかってこと。

もちろん、朝から「重苦しい暗い気分になる」のは、私だってノーサンキューだけど、主人公が壁を乗り越えて道を切り開いていく過程を、ユーモアをもって軽やかに描くことは、難しいことでもなんでもない(なんか「マッサン」は予告を見るとそんな感じになりそうな気がする)。そして、それを見ると明るい気分になるし、すかっとする。とても気持ちいい。カタルシスって壁が崩壊するところに生じるから。

私は、そういうのをドラマに求めてる、というのが今回はっきりわかりました。それが、私の価値観や人生観、ものの見方の反映だと言われれば、確かにそうでしょうね。

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2014-09-16 16:23:44   2014-09-16 18:01:36
2014-09-18 17:10:39   2014-09-18 21:06:56

以上の感想を興味深く、読ませていただきました。最後の1週間ですが、番組完結を前に、初めて投稿します。カナダ映画の「赤毛のアン」シリーズを数年前に見て、子供の頃に読んで以来、改めて同書を読み返しました。数冊を見比べ、村岡訳が古くても適切と購入。とても面白く感じ入り、あの時代にこれだけの翻訳ができた女性とはどんな人だったのかと感銘を受けました。その後、村岡訳には誤訳や省略があるとの話題をネットで確認したので、巻末の特に重要な箇所を試訳したりするうち、NHKで「花子とアン」が始まり、大いに喜んで録画視聴してきた次第です。(例えば、文庫版で7行が、原文を訳すと12倍くらいになります。)

フィクションとして、当初は面白い場面などもあり、事実と異なる点も受け入れていましたが、明治末から大正・昭和にかけて、時代背景が描かれず、だんだん単なるホームドラマに変質していったのが、残念です。何より、新しい時代を切り開いていった女性たちを代表するはずの村岡花子さんの精神が、浮かび上がってきません。知的エリートの人たちがどういう認識を持ちながら、欧米をも相手とする無益で無謀な戦争拡大を許してしまったのか。敗戦となって、無力感や悔悟など、示されていましたが、深みはなかったです。悲惨な戦争を直接に描かずとも、真実を散りばめるドラマであって欲しいです。また、アジア諸国への加害に対する謝罪の念はまるでなかったですね。そもそも、戦争ドラマではないとはいえ、時代を正確に伝える役割が、NHK(公共放送)にはあると思います。

個人的には、「赤毛のアン」を試訳していた間、原文に感じ入り、また、ふさわしい日本語を探しながら、温かな幸福感に包まれました。村岡さんは、出版の当てもなく(収入の保証もなく)、終戦までに700枚もの翻訳原稿を仕上げたということですから、その間、この本の内容に共感し楽しんで訳に打ち込みながら、次第に使命感を抱き、日本にこの本を紹介できるよう、一時も早い戦争終結と平和を祈念するようになったと確信しています。ドラマで、空襲の時に原稿を持ち出さなかったとか、原書や辞書がまるで新品のようにきれいすぎるとか、違和感に悩まされながら視聴してきましたが、机に向かってすらすらと訳している場面だけでは、何も伝わって来ない。明るい未来への悲願を込めて、誠心誠意、長い時をかけて、決して簡単ではない翻訳を信念を持ってこつこつと進めているところこそ、ドラマで強く描いて欲しかった、ということに尽きます。

長文になり、失礼いたしました。

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今のところ、支離滅裂さ、わけのわからなさにかけては、歴代ワースト1位です。
それをあえて狙った、という計算の上でもなく、ただ漫然と、脚本家が自分の好みと視聴者受けのよさそうなものを、全体構成を無視して流し続けた、といった印象のドラマ。
ちょっと、ほかに例を見ませんね。
それに刺激されて喜ぶ視聴者が多かったというのも、社会現象として考えると、興味深くもありますが、一方で、これでいいのか、と考えさせるものではありました。

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ただ視聴率をとることだけを追いかけ続けたドラマ。この俳優が人気と分かれば、無意味な出演シーンをやたらと増やす。このエピが評判いいと分かれば、前後のストーリーが辻褄あわなくなることなどお構いなしに、エピを無駄に引き延ばす。花の息子の夭折やももの子を養子にしたことなど、花の人生における重要なエピは軽くスルー。主人公は翻訳家であるはずなのに、花と翻訳との関わりはほとんど描かれてこなかった。脚本家がお好きな恋バナばかりを、これでもかというように満載。おかげで後半になり時間が足りなくなってしまい、あとはダイジェスト版のようなやっつけ仕事。その結果、視聴率しか誇るもののないドラマと成り果てた。この一言に尽きると思います。それでも高視聴率をとれたから結果的に成功だと、某局スタッフの人たちがほくそ笑んでいる顔が目に見えるようです。

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名前無し

花子は本当に自分の事しか考えられない自己チュー女
として描かれてますね。
今回の美里への衝撃の告白も、自分は良いだろう
ももを庇ったつもりであろう
でも 言われた美里は?と思ったら
婦人会の乱入で兄やんがまたも職権乱用
そして思い出したようにアンの訳 ラストまで
カウントダウンになってからはじまった?
醍醐さんの時も ボロボロになりながらも
花子に会いに来たのに、、玄関先でバイバイ
詳しい話は編集長からって、、何で?
週が変われば円満解決になっている
どれだけ想像の翼を広げさせられるのか
もう疲れて羽ばたけない

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名前無し

美里のシーンは驚きました。
エッ、花子今話すの?
あの年の子が、誰にもいわず一人で山梨から東京までやってきたんだよ?慣れてるわけでもない長い道のりを。
どんなに葛藤があって、不安があったか…まずその心情を聞かないの?
そんな気持ちが平常でないときに、両親だと思っていた人が実はそうではなく、叔父叔母が実の両親だったと聞かされる…
自分の拠って立つところが揺らぐようなことを突然言われるなんて!
英治はと言えば、花子の顔を見てその心中を慮るような表情…。違うでしょ!心配すべきは美里の気持ちでしょ!本当の子供と思っていると言いながら、その無神経さは何?
しかも、黙って部屋を出ていく美里にフォローなし?
視聴者としては心配だよ!美里、帰る場所がないみたいに思ったらどうするの?
そして場面切り替え…エッ美里どうなったの?ももと旭は何か話したの?それは明日?
もうびっくり。

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名前無し

花アンの批判意見はいろいろありますが、ここでクソと言ってるのは見たことないですね。クソドラマっていう言い方は結構このサイトでもこれまでは見たような気がしますが、お行儀いい方なんじゃないですか?このドラマの批判コメントって。
というか、割と追求型のコメントが多くて読み応えのある感想、レビューが多いですね。
単なる好き嫌いにとどまらず脚本の矛盾やキャラのブレを指摘するものが多く、細かいところまでよく見てらっしゃるなあ、覚えてらっしゃるなあ、と感じます。

あととても面白い現象だなあ、と感じてるのは批判意見で他のドラマと比べているコメントをいろいろ読んでみると花アンが好みでない、面白くない、というところが一致しているけれど好きな朝ドラが必ずしも一致しているわけではなくて割とばらばら、というのが興味深いですね。
いろいろな違うタイプのドラマをそれぞれ熱く語りながらそれと比べてこれの物足りなさのようなものを指摘しているコメントがよくあります。

つまり、他の朝ドラにはあったどの要素をとってみてもどこか足りないドラマ、ということなのかもしれない、と思いますし、実際それは私が感じてきたことでもあるのです。

梅ちゃん先生のように心底ほのぼののほほん、とした安心感があるわけでもない。カーネーションのように人物が多面性を持ち生き生きとしているわけでもない、純と愛のように徹底的に思い切りやりたい表現をして視聴者に媚びてない、というものでもない、あまちゃんのようにギャグセンス満載で何も考えず大笑いして元気になれるようなものでもない、ごちそうさんのようにテーマがしっかりして脚本が充実してるドラマでもない・・・・何だかここ最近のどの朝ドラと比べても私は「ドラマ」としての個性と吸引力に欠けている朝ドラのように感じてしまっています。視聴率が高いのはいわゆるドラマの王道的な要素で人気を得ているのではないように感じています。

もちろん中には、他の好きな朝ドラと同じくらい好き、それ以上に好き、これが一番好き、と言う方もいらっしゃいますが、これだけ好みが違う人が違う角度から批判をするようなドラマもわりと珍しいのでは、と感じています。比較によってこのドラマを語る人のコメントを読んでそんなことを感じました。

どの要素も曖昧でぼやけていていまひとつインパクトがないのでその分アクが強くないところはあり、見続けることはできるけれど、好き嫌いは別に考えても、最近の朝ドラの中では終わってもたぶんドラマとして一番印象の薄い朝ドラになるのではないかと個人的には思っています。

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やはり脚本がとても不自然。結核は当時ではガンと同じような死病。結婚したばかりの夫が罹患して、幼子を抱えている妻に、いま「私は幸せだ」と言わせるなどということは、大正・昭和初期の状況を思えば、非常識。また、生まれたばかりの赤ん坊を置いていかなければならない母親の身を切るような辛さもまったく描かれていない。脚本の無神経さ(時代考証のいいかげんさ、人間理解の浅さ、都合だけで話を進めていく身勝手さ)は相変わらず。

今日もまだ「ごきげんよう」のごり押しが目立った。こうまで瑣末な言葉にこだわる必然性はどこにもない(むしろ「想像の翼」の方が、使い方はとても下手だが花子を象徴する言葉)。「ごちそうさん」への対抗意識か?などと疑ってしまう。

やはり土屋さんと同じ場にいると、吉高さんは演技の稚拙さが目立つ。切々と心情を訴える妹の横で、またしても目に表情のない姉。つくづく「感極まる」という演技ができない人だなあ、と思う。黙って目をうるませたり震わせたりがまったくできていない。土屋さんについては、主演の朝ドラで、ぜひいい脚本に恵まれてほしい。

……と今日もいろんなことを思いました。
ただ、ハナが部長とやり合いかけたシーンだけは、ちょっとだけ期待した。今までと同じ「なんとなく」ではなく、腹に一物ある無礼なあの部長と、確執の末にハナが自分の意志を通した、となれば、このドラマも少しは見直せるのですが。期待に添ってくれますかねえ。

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 これまでのこのドラマの流れを見ていて、女性であることで苦しんだのは蓮子が伯爵家にされたことくらいであとは今日会合に参加してた女性たちがヒロインはじめ本当に女性が下に見られた苦しみや悔しさなんてこのドラマでは経験していない。
回りのすべて自分に合わせてくれる優しい(?)男たちに持ち上げられて人生やって来ました、って人たち。花子は母や姉妹たちは女性として大変な目に合ったのを見てきてはいるけれど、だからといって真剣に女性の社会的地位について考えた場面なんてひとつもなかった。田舎の職場で大変なことがあってもいつも優しい助けてくれる朝市にどっぷり世話になっていた。

 この時代に女性の人権主張の動きがあった、ということは事実だけれど、このドラマってすべてそういう事実をただことばでその時々で表面的に並べているだけ。
女性の権利、などとあの人たちが今ことさらに叫んでも全く現実感もなければ真剣な感じもせずなんだかそれをネタに自分たちが盛り上がってるだけにしか見えない。なににしても本当の真剣さというものが皆無だ。
雑誌、「家庭」を通じて上質な文学を日本の家庭に届ける、なんてことを言ってもそもそもこのドラマ自体が文学のぶの字も届けてくれていない、ただできごとの表層をなぞっているだけなので、その言葉自体が非常に浮いてしまっている。

 本当にものごと一つ一つ、台詞ひとつひとつが耐えられないような軽さ。花子とアン、NHK朝ドラの存在の耐えられない軽さ、という感じ。

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名前無し

ホンマに クサイ芝居で新喜劇やったら、池乃めだかに怒られるわ!
花アンファン?の方々の悲しみを忘れるためには笑いが必要とか
辛い場面ばかりではとか 本当に楽しめました言うの怖いわ。
近所に 子どもの百ケ日も済んでないのに良い大人が集まり
茶番劇してる家あったらどう思う?変やろう?
それも かよちゃんのカフェで二人とも会ってんのにやで そこで告白したらええん違うの?
白蓮の話をグイグイ本にした人やのにな。

花子の元気がないのを心配した近所の子どもらが、笑わせるために
涙さんの劇を見せに来るとかはあかんの?
あれではただのアホの集団やんか!情けない朝ドラもあったもんや。

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名前無し

屋根のこともそうなんだけれどこのドラマってほのぼの、というのかほのぼのしてるつもりで非常に無神経、っていう部分を時々感じる。人の差別意識みたいなのを当たり前に認めちゃっているような。貧乏人は貧乏人、上流社会は上流社会、そういうものがあるんですよ、みたいなところとかも。
そういうものに対するデリカシーがないのでヒロインのやることにももちあげられ方にもいまいち好感が持てないでいる。
タケシとかそりゃとんでもない奴だとは思うけれど何度もあんな男だけは結婚相手にありえない、って自分で想像しておいて毛嫌いするとかって・・・?!伝助の行儀の悪さやおかあの髪型などにもなんだか気配りのなさを感じる。朝市も創作キャラ、ということだけれど常に花子の都合のいいように作られている感じ。ひとりひとりについての細やかな作り方がされていないように思う。

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エピソードを回収なしの放置、テーマの一貫性のなさ、キャラクターのブレ、エピ間や演出間のバランスの悪さ、まとまりのなさ、限られたセットの使い回し、役柄の硬直化、稚拙な演技の役者の投入・・・あげればきりがない。
このような造りのドラマを、クオリティが高いとは言いません。
役者が自分の好みとか、目に綾なもので楽しませてもらったとか、部分的にじんときたということはあったとしても、それとドラマ全体の質とは関係のないこと。
つくづく表面的な雰囲気と感覚的な刺激から構成されたものだったんだなあ、という印象が、時間が経つほど、離れて見るほど強くなってきます。

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名前無し

私は、この作品では、むしろ批判をしていた人たちの方がマスコミにとって 「もの言わぬ人々」だったと思っています。サイレントマジョリティーでなく、サイレント「マイノリティー」(笑)
なにせマスコミもNHKも、喧伝するのは視聴率が高いということばかり。陰に隠れた批判など都合が悪くて取り上げるはずもありません。そのため、世間的には、まるで批判など存在しないかのように扱われました。
ところが、一皮むいてみると、SNSでもこういうレビューサイトでも、個人的には私の周囲でも、このドラマはおかしいと言っている人がたくさんいた。声なき人々の声。この(かなり人為的な)二極化が今回の大きな特徴です。

私もそれに与していました。ここにもいろいろ書きましたが、今にして思えば、ドラマ、特にNHKのドラマってこうあってはいけない、日本のドラマ文化を先導するはずのNHKがこれではいけない、という強い抗議の気持ちが、ドラマを注視させ、レビューを書き続けさせたような気がします。普通なら、つまらないと思ったら視聴をやめてまったく顧みないはずですから。
上の方に書かれた方も、同じようなお気持ちだったのではと思います。

そのように、どちらかというと、ここの人たちにというよりも、大げさに言えば、社会とかNHKに向けてレビューを発信していたような「もの言わぬ人」の一人の私でしたが、結果はどうかというと、報われたと思います。
評論家が、私たちの声を、「このドラマには批判がある」として賛同的に取り上げました。その文章を読んだとき、ここで言われていたことのあれこれが、そっくりそのまま書かれていたのに驚いたものです。中には、自分の意見として発表した人もいましたが、それも、とっくにここで出ていた批評と同じでした。
つまり、プロの目で見たドラマ評と、私たちの評は、なんら変わりなかったのです。(これは自信を持っていいことです。)

もちろん、それでもまだマイノリティーには違いなく、相変わらずマスコミの大声にかき消されがちですが、今は、表向きはどうあれ、ネットは、件の評論家のようにマスコミ関係者にとって欠くべからざるツールですから、無視はできません。十分に一石は投じたと思います。
当時、「そんなこといくらここで言ってたって無駄だよ」と揶揄するコメントも多くありましたが、そんなことはなかったわけです。ネットで意見を発信して、それが大きな潮流になれば、一つの力を持ちます。
この作品では、そういうことも学びました。

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 毎朝BSをメモを取りながら観て、終わったらすぐ仕事のため駅に向かっていました。
 午後の時間の空いた時間に楽しみながら書いていましたが、言葉の出てこない時や、全然まとまらない時は、苦しみとなっていました。分量も少なく期間も半分の3か月間でしたが、脚本家の方の想像を絶するような苦しみを垣間見たような気がします。
 この半年間、ドラマではずいぶんと楽しませていただきました。熱演された役者さんやスタッフの方々、また関係者の方々に、心より御礼申し上げます。
 ここでは初めの頃は、時々突っ込みを入れながら書いていましたが、途中からそんな自分に嫌気がさしてきて楽しめなくなり、何か楽しくなることはと考え、永遠の片思い大賞を書いたり、自分なりのタンポポの目を書いたりしました。恋愛のパートに入って、演出が和歌や俳句の世界を表現していましたので、それに刺激されて書き始めたことでした。自分が楽しむためのものでしたが、毎日次々と宿題を出されているようで、まるで格闘しているような気分でした。挫折することなく最後までたどり着けたのは、応援してくださった方々のお陰と思っています。厚く御礼申し上げます。
 これから先のことは、まだ何も考えてはいませんが、少し休みたいと感じています。また皆様に、どこかでお会いできますことを楽しみにしています。本当に長い間、ありがとうございました。

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名前無し

今週は太平洋戦争開戦に始まり、花子、蓮子、醍醐さんのそれぞれの戦争が描かれていましたね。

宇田川先生や長谷部先生ら戦争支援派文学人の流れで勇んでシンガポールに戦地取材に行った醍醐さんは思いがけない戦争の悲惨さを目の当たりにしてショックを受ける。一方、そんな世情に背を向けて反戦の意志を貫く蓮子さんは、大事な息子を死を覚悟の戦場へと見送ることに。昨日の仲間さんの情感あふれる演技は見事でした。
そして子供たちに戦争の話をしたくない、とラジオの仕事を辞めた花子は世間から白い目で見られ、子供たちから石まで投げられた上、婦人会の突き上げで大事な洋書を(一部とはいえ)焼き捨てられる。それでもそんな苦境の中でもアンの翻訳を始め、大空襲の夜には原書や大辞典を抱えて娘とともに戦火の中を逃げまどう。
3人それぞれの行動が、敗戦への道をひた走る当時の日本の厳しい状況をよく表していると思います。
麦飯に梅干しだけのお弁当や干し芋作り、おつゆに入れる食べられる草探しなど、苦しい食料事情などもさりげなく描かれていましたた。
多少駆け足でも、なかなか見応えのある一週間だったと思います。
そういう辛く厳しい状況下で唯一の希望が花子が抱いて逃げたアンオブグリーンゲイブルズ。スコット先生に約束したように、平和になったときに日本中の子供たちに夢を与えられる素晴らしい翻訳本の完成が待ち遠しいです。

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戦地へと旅立つ兵士思いやり心を籠めて料理をつくる
かよの店母親の味を思い出す涙を流し残さず食べる
御馳走様美味しかったよ戦地から戻ってきたら必ず来るよ
あの人もあの人もまた帰り来る遺骨になって店には来ない
かよは知る郁弥失う悲しさを兵士を想う人たちがいる
あの時は何も返せず飛び出して深い後悔自分を責めた
国のため命捧げる兵士たち戻らぬ人に愛を捧げる

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