2.96
5 596件
4 152件
3 85件
2 131件
1 637件
合計 1601
読み おちょやん
放送局 NHK総合
クール 2020年10月期
期間 2020-11-30 ~ 2021-05-14
時間帯 月曜日 08:00
出演
モデルは「大阪のお母さん」と呼ばれ、上方女優の代名詞ともいえる浪花千栄子。大阪の貧しい家に生まれた竹井千代は奉公に出ていた道頓堀で芝居の素晴らしさに魅了される。戦中、戦後の大阪で芸の道を一途に歩んだ人気女優の姿を描く物語。※BS4KとBSPは朝7時半〜 ht...全て表示
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名前無し

このドラマは金曜日に山を作ることが多いが、今週は水曜日と金曜日に2つ山があると確信できるほど、今日の話は考えさせられた。

そもそも、なぜ一平が父の名を襲名しないのか、母を追い出したという父への恨みからというなら、その母から一平を説得してもらえば一平も考えを変えるかもしれないという千代のいささか甘い期待が今回の母親探しと再会だったわけだが、現実は厳しかった。

父に追い出されたのではなく、幼い一平を捨てて、自分から男と出て行ったと語る母は終始冷淡な態度で、手切れ金まで渡そうとする。自身も父の酷い態度に苦しめられてきた千代は、一平に代わって思わず夕に手を出してしまう。一平の受けたショックがわが身のことのように分かるからだ。

人の心理は極限まで追い詰められると「笑い」と「悲しみ」が紙一重になるのだろうか。一平のまるで母に駄々をこねる子供のように笑い転げる姿は痛ましくさえあった。今まで封印されてしまっていた、子供心にあまりにも衝撃的だった記憶が蘇った一平にとって、瞼の母は現実の母に変わった。気持ちを落ち着かせて、汽車賃だけを受け取り「お幸せに」と言って立ち去る時の一平は立派だった。

一方、夕とて幼子を捨てて来た後悔の念は今も変わらず、忘れることなど出来なかった。だからこそ、旅館の馴染み客に子供と海へ行った時の思い出を懐かしく語り、帰って行く客がまだ近くに居るのに、一平と千代を一目見て一平と気付き、顔を引きつらせ、冷淡を装ったのだ。本当は一平に合わす顔がない、こんな母のことは忘れて幸せになってほしいと願う母の気持ちは最後の号泣に表れていた・・。

一平、夕、千代の三者三様の辛く、せつない気持ちが凝縮された圧巻の一幕だった。

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名前無し

なんなんだ今日の回は…
くっっっっさい三文芝居に吐きそうになったし、さすがにもう主役の演技が鼻につくようになってきた。
目を見開いて息を止めたような喋り方でそれっぽいことを言えば視聴者の胸を打つとか思ってない?すごいワンパターンなんだけど。花ちゃんいつもいつもその演技よ。飽きたわ。ワンパターンだから、ペラッペラなんだ。人物に全く奥行きがない。共感できる部分がない。

あとツッコミどころが多すぎるんだけど、明け方亡命しようと天海家を出る2人をさ、名前を呼んで2回も引き止めるって、ありえないんだけどマジで!
いや誰かが聞いてたら、特高が張り込んでたりしたらどうすんの?とか、えらいのんびりしとんの!!とか、そういうのせめて家の中でやれや!とかもう忙しいよ!!
なんかそういう場面を美しく見せようとしてリアリティがなくなってるやんと思った。強調するとこそこじゃなくね?
別に2人が去るシーンとかそれこそナレーションでもいいと思うんだけどな。こういう蛇足のシーン作るから薄いんでしょ!ドラマが!
本気の星ひとつです!!

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名前無し

とても残念な朝ドラでした。汚いもの不幸なものを見せ続け、さあ人は考え方次第でこんなに幸せになれるんだよ、変われるんだよみたいな押し付け感を感じて気持ち悪かった。史実ではあんな風には決して許さなかったらしいのに、ドラマではたった2年で丸く納めちゃって違和感しかないです。

テルヲやヨシヲ、栗子もそうだけど、最後に何でもかんでも無理やり綺麗な話にし過ぎなんです。最後さえ良ければそれでいいなんて私はとても思えないですね。あざとさを感じて、よけいにおちょやんが嫌いになりました。
モネは普通の朝ドラっぽいので楽しみです。

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名前無し

このドラマはBK制作とあって、上方独特のお笑い文化が深く底にありますね。私は大阪出身ではありませんが、大阪に近い地域で育ち、吉本や松竹の喜劇をTVで見て育ち、映画を見に行ったり、買い物に行ったりと、ちょっと遊びに行くといえば大阪でした。
今は大阪に住んでいます。大阪の文化は理屈ではなく、肌感覚なので、大阪文化圏にあまり関わりの無い方には受け入れられないものがあるのは分かります。

逆もしかりで、上方からは東京圏の人達の話し方、リアクションの仕方に馴染めず、関わり方が難しく感じます。お笑い文化もやはり肌感覚での違いを感じます。

その他にも日本には様々な地域と其々の文化があり、小さな日本列島でさえ、文化の面で一つにまとまるのは容易ではありません。だからといって、単一文化にする必要もなく、多様な文化が入り混じり、ぶつかり合う所に新しい化学反応が生まれ、その多様性こそが文化の醍醐味です。

私はこのおちょやん、とても好きです。幼い時、近隣地方から大阪や京都に遊びに行った時のあのワクワク感を思い出します。道頓堀や心斎橋を中心とした上方感溢れるミナミ、少し気取った洗練感あるキタ。そして情緒溢れる京都。

おちょやんの時代設定は大正〜昭和30年代と、今とは様相が変わったとは言え、上方の精神文化は今も底通しています。そんな上方文化を全国の皆さんに少しでも味わってもらって、でもやっぱり自分の育った地域が一番、と思ってもらっていいのです。

NHKの朝ドラって、そういう意味で、なんだか民俗学的題材のようであり、ドラマ版日本風土記のようであり、興味深いです。

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名前無し

数日前に、納得できる投稿(05-14 14:05)がありました。短絡した感想は書きたくないので、ネットでの論評なども参照していますが、深く哲学的に解説・称賛しているものも見受けられ、ちょっとびっくり。朝ドラでそこまで深く解釈するのは、普通の視聴者には無理と思います。要は、テーマが「赦し」とか、「肉親以外の擬似家族との繋がり」「断ち切れない肉親への愛情」とか。確かに、古今東西の普遍的なテーマですが、本来の朝ドラに求められるのは、半年間1725分もかけて、人生における赦しとは、と悩み考え続けるヒントを与えることではないと思います。

脚本家やスタッフの意欲を否定するわけではないが、それなら、本格的ドラマとして、朝ドラ以外の枠でやって欲しいです。もやもやしながら、婦人公論の記事で、浪花千栄子さんの実像を読んで、腑に落ちました。「おちょやん」の千代と一平とは全く別物だと。浪花さんをモデルにしたドラマというほどのものではなく、浪花千栄子という立派な女優が活躍した時代があったが、それをちょっとだけ借りて、元気で可愛い女の子が善意の人たちに支えられて頑張って人気女優になり、家族を持ち、母になりました、というだけの似ても似つかぬドラマに作り変えてしまった。

だから、主人公の頑張りや熱量に打たれて応援する気にもならず。(ニコニコ顔、怒り顔、涙顔の単調な繰り返し)周りの支えてくれている人たち(?)に好感を抱けず。(存在感が薄い人、もしくは型通りの人が同時にワイワイするばかりだった)浪花さんを捨てたという元旦那さんが中途半端。(一人じゃないよと千代に言ったことを無かったことにできないので、不倫を一夜の過ちにしてしまった。憎めもできず、かと言って、どんな芝居を目指してどう苦労して、どう新喜劇を達成したのかよく解らないので寛容に許すこともできず)結局のところ、関西の喜劇の発展も、よく分からずに終わってしまいました。

人生の荒波をくぐり抜けて、演技を磨きあげ、歴史に残る何人もの有名監督のもとで、重要な脇役として光りを放ったという、家族に翻弄されるだけでなく、足かせを逃れて自己実現を果たした、という浪花さんの精進の過程が全く描かれていない。本当にがっかりしました。
(現実の浪花さんの解説は省きますが、アチャコと10年続いたラジオ番組の前に、溝口監督の映画でブルーリボン助演賞を獲得しています)
結局、どんなに非情な親でも恨まず、血の繋がった人を養子にして、幸せに、っていう凡庸な価値観の押し付けに思えて、そういう人生を辿れなかった人たちに対する思いやりが欠けています。
最初から、浪花千栄子をモデルにした朝ドラ、と言わなければ、単なるフィクションで済むのでしょうが、朝ドラとしては、ある時代背景を背負いながら生き抜いた人物を広く深く描けなければ、半年間のドラマにする意味がないです。

なお、脚本や演技だけでなく、演出も自己満足でおかしかったです。最後の舞台で、一人(漆原さん?)だけ、終始、顔を背けて泣いていたのが、逆に目障りで気になった。それと、何度もしつこく、父親の写真が映るたびに目を背けさせられた。人情喜劇なら涙の後に大笑い、とならずに、皆が皆、ただ泣きすぎで白けました。最終シーンで、道端に、傷痍軍人のような人が座っているようなのが本当に邪魔でした。多くの指摘があった、千代の台詞が聞き取れない件、確認して直せなかったのはどうして? ヤクザ(借金取り)役で現れた俳優が、「べっぴんさん」の闇市に出てきた人で、どうして何度も同じ人がと不愉快に。焼け跡に埋れていたトランペットを問題なくすぐ吹けるのか? なぜ、やたらと当時では不自然なハグをするのか? 総合的・客観的にチェックする担当者がいないのか?

最後に、杉咲花さんには、別の作品で成長して欲しいです。それは、可能だと思います。

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名前無し

最初はひたすら我慢我慢の連続で、その間に力を蓄えたかのように、だんだん攻めに転じていく。並みの朝ドラじゃないなとは思っていたけれど、ここまで攻め立ててくるとは思いませんでした。現在と過去が連動する八津さんの脚本構成は観ていてワクワクするものがありました。
何より、杉咲花さんの魂のこもった演技の連続には、本当に驚かされました。まだ23才の女優さんの、役に対する熱い姿勢がそのまま千代の姿に見えました。成田凌さんの、二代目としての苦悩を抱えながら、さりげなく相手を支える演技が、悔しいけれどかっこ良かったです。また、そのほかの共演者の一人一人のお芝居に毎日感動でうるうるでした。ナレーターの桂吉弥さん、感無量でしたね。
このドラマを最後まで見届けられて最高の気分です。コロナ禍の中、いろいろなことに気をつけながらの長い期間の撮影、制作、お疲れさまでした。
ありがとう、おちょやん💐

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名前無し

金曜日のラジオドラマの話が特になんの見どころもなかったのでがっかりした。戦争から帰ってきた夫という話をわざわざ選んでいる以上、戦後の日本人みなの心に触れるエピソードにするかと思っていたが、戦争で人生を大きく傷つけられたみつえと福助、またはシズと菊に全然絡められていないので本当に残念だ。「お帰りなさい」を十数人で言い繋ぐところでもいいから福助や菊や百久利の回想か写真を入れてほしかった。栗子と春子など千代の新しい家族に焦点を当てたともいえるが、それでもヨシヲは必要だろう。満州から帰って来なかったヨシヲ。彼がもし生きて帰って来てくれたなら、千代はどんな「お帰りなさい」を言っただろうか。

劇中劇はほっしゃん。がやっていたという話をここで見ていたので、やはりこの脚本家は劇中劇とドラマを絡ませるのが下手だったのだろうが(宮藤官九郎などは名手)、それにしてもこのわかりやすいラジオドラマの筋でこれまでの今作のドラマと絡められないのは下手すぎると思った。

だがもう千代が成功して笑顔でいてくれたらそれでいいという人もいるだろう。ここまで千代を頑張って応援してきたファンはその気持ちが強いだろうし、暗黒の朝ドラを半年近く見てきた視聴者はこれ以上暗いところは見たくないというのが本音だろう。脈絡もなくハッピーエンドでかまわない、栗子が突然いい人になって実は千代の一番の応援者でしたというオチでももはやどうでもいい、辛い場面ばかり見せられてきた朝ドラファンが幸せな結末を望むのはわかるのだが、そう仕向けた脚本家のあざとさを私は忘れない。

これまでの『おちょやん』の作風でいけば脚本家の長澤は片金所長かジョージ本田のような変人になったはずだが異様なほどにいい人だ。当郎も千之助や万太郎に比べたら別世界の人間のようにいい人である。恐らくこの二人と春子と豹変した栗子が『おちょやん』の代表のように扱われるだろう。最初からいたのにキャラ立ちしないまま終わる天晴・徳利・漆原は最後まで脚本家に使ってもらえなかった、こういうところが冷たい。

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名前無し

杉咲花の独壇場が不快になる。
戦時中も疎開せず、喜劇を演じることに命をかけた千代。
戦争が終わると、さっそく喜劇を始めた千代。その舞台から離れて、みつえに駆け寄るのは、舞台人失格。みつえとの友情を表したかったのだろうが、他の役者や観客は無視。これでは役者として自立することはできない。

脚本や演出も破綻している。
一福が闇市で吹いていた曲は「ハバネラ」?
軍国少年が民主主義少年にかわっても、この曲は少年が吹くには無理がある。

どなたかが書かれていたが、このドラマは人間や家族が描かれていない。すべての出来事が唐突で、千代の都合の良いようにドラマが進行している。一平さえもモブ扱いされて、夫婦の共感や細やかな会話がない。

ドラマは共演者と制作者との共同作業である。杉咲花以外の俳優さんはどんな気持ちで演じているのだろうか? 他の役者さんが気の毒に思う。

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名前無し

「親は子供の幸せを願うもんやろ?」がタイトルの週だったので、劇中劇やシズさんとみつえさん親娘の話が、スピンオフ的に思えてしまって、少しガッカリだったのですが、実は千代ちゃんが幼少の頃、父親や継母の栗子さんに、本音でもっと言いたかった事が隠されていたとすると、考えさせられる週になったと思いました。

父親の事は継母が来た時点で、あきらめざるを得なかったでしょうし、何度も無心にやってきた父親に対して、縁を切ることさえ出来なかった千代ちゃんの心情を考えると、表には出ませんが切ない週になりました。自分に無償の愛なんてあるのか、これから見つかるのか、複雑な気持ちを抱えながら、どこかでマツさんみたいな継母だったらとか、シズさんやみつえさんのような親娘関係が自分にもあればと、つい、無い物ねだりをしてしまう自分に、嫌気がさしてしまう時って、私にもあったのですが、それを誰にも悟られないようにするのも意地のようなものだったのかもしれません。

ただ何度か千代ちゃんが寂しげな表情を見せるシーンがありました。千代ちゃんにとっては岡安は唯一の居場所。でもシズさんがみつえさんの幼少の頃の黄色い着物を見てしみじみ語るシーンは、千代ちゃんにとって本当は辛いはず。唯一形見のように持っているビー玉の黄色とも重なって、複雑な気持ちを抱えながら、岡安のために力になろうと考えたとしてもおかしくはないですね。

千代ちゃんは何かとお節介はするけれど、自分の事は実はあまり語っていない
気がします。あくまでも感想なので、ドラマの実のところはよくわからないので、
間違っているかもしれません。そこのところはお許しください。

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名前無し

星2にするか迷った。ドラマ全体としてみると星1だが、主演の杉咲花は本当によく頑張ったと思うので、彼女の頑張りに星を増やそうかと思った。しかし、彼女が千代役に果たしてあっていたのかと思うと、ちょっと疑問である。
およそ人気作は主演の俳優が主役にぴったりあっていて、もうその人しか考えられないということが多い。千代も杉咲花でなければできなかったという人が多いし、私もそう思うところはたしかにある。一方で、杉咲花の個性が前面に出すぎていて、しかもそれが千代という人物に実は合っていなかったのではとも思うのだ。子役千代の名台詞「うちがあんたらを捨てたんや」はあの子役千代にはこれ以上ないほどぴったりだったが、杉咲花の千代には合わなかったと私は感じた。テルヲを足蹴にするのも、ついでに言うとタコ入道やハゲヅラも、合わなかったというよりもはや見ていて痛々しかった。ここでも「上から目線」「押しつけがましい」「偉そう」という表現を見たが、実際そう見えたのは、杉咲花の人のよさというか品のよさが強く千代のがさつさ粗雑さを表現できず、下層でもがいているはずの千代がどこかお嬢様のように見えたからではないだろうか。千代の生まれ育ちを考えると雑草のようなたくましさがあったはずだが、杉咲花の千代にはそういう土臭いど根性が見えなかった。一流店のお茶子として躾けられたとはいえ、カッとなると現れるはずの本性までもどこか達観したお嬢様然としていたのだ。たしかみつえと千代は女優が逆ならよかったという感想も見たが、それはこういうことではないかと思う。ただ、芯の強さは杉咲花の持ち味で、彼女の千代を好きな人はそこに惹かれたのではないかとも思う。
すごかったのは子役の方で、あの子は終盤に別役で再出演したが、その時は杉咲花に似せて演じていたと思った。つまり、最初の子役千代は台本を読んで千代らしく演じて、再出演時の春子の時は「杉咲花の千代」に雰囲気が似るように演じたのではないかと感じた。将来が楽しみである。
杉咲花が一生懸命に演じていたので周囲のキャストもなんとか彼女を盛り立てようとしていたのだろう、終盤は役者陣が泣きに入るのが早すぎるほどの涙の熱演で、しかしそのせいで見ている方はかえって引いてしまった。これは演出家が悪かった(下手かった)し、現場に厳しい大御所やベテランをキャスティングしていなかったというのもあると思う。近藤正臣や樹木希林や草笛光子などがいたら、杉咲花ももっと心を強くして演じられただろう。若村麻由美がシズ役だったらまた違っていたのではないかとも思った。やはり脚本とキャスティングは重要。

あと、大阪制作はここ数作、汚いものや人間の闇の部分を描けば大阪風くらいに思っているように見えるが、本当にやめてほしい。大阪制作の良さである細やかな人情の機微、本音をぶつけても笑い合えるからっとした明るさが見たい。ちょうど代表作のような『ふたりっ子』が再放送中なので、やるならあのくらい練られた脚本で挑戦してほしいものだ。

ドラマ放送後に出演者に「言い訳」をさせるのもやめてほしい。ドラマ内の後出しもひどかったが、「実はこうでした」というのを放送後にホームページで公開されても見ないからわからない。制作者の意図や演者の感想を書くのはどのドラマでもあるが、評判が悪すぎて出演者に「言い訳」をさせるなどはドラマの禁じ手だと思う。テルヲを親と思うか否かはあの「言い訳」を見たか、または「あさイチプレミアムトーク」の演者本人の嘆きを見たかでかなり差がついたと思われる。あと、主演が役者個人のSNSで共演者の写真をアップするのもいかがなものか。宣伝はやはり局に任せた方がいいのでは。過去の主演達も言いたいことはたくさんあっただろうが、全部飲み込んで必死に演じてきたと思う。

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名前無し

今作の視聴率の低さはテルヲのせいだろうと先日書いたが、私が個人的に今作を受け付けなかったのは、「許し」がテーマらしいこのドラマの中で大きな問題だったはずの「テルヲを許した千代」の気持ちがわからなかったからだと思う。
例えばこれが普通のダメ親父(『スカーレット』常治のように働けど貧乏で酒に逃げ娘にあたるが愛情はある)ならば娘が時を経て成長し親の立場になった時にその苦しみややるせなさを理解して和解できるという展開もあり得るのだが、テルヲのように子への愛情が無く子育てを放棄した「親になってはいけない男」を「親として許す」というのはそこまでにはっきりと理由が無いと到底納得できない展開だ。その理由が全く描かれておらずひたすら主演の熱演に委ねられていたので、とてもドラマとして成立しているとは思えなかった。
初期のシズと延四郎も許しの伏線という感想も見たが、あれは上記のダメ親父を許す話と同じで、許す前提が始めから存在している。懸命に生きた男女が時代と立場のせいで結ばれることなく終わったが、長い時を経て再会し互いを認め合う。これは二人の思いが始めからあるので成立する展開だ。しかしテルヲと千代は始めから普通の親子ではない。少なくとも第一週のテルヲは千代への愛情がなかったし、その後も娘の体で借金を返そうとしたり娘の貯金全額盗んで消えたり、とても親と呼べるような人間ではなかった。この親の心がなかったテルヲが最後の週だけ親のように振舞うのも異常に見えたし、あれだけの虐待を受けながら最後に許しを与えて死後も普通の親として扱う千代についていけなかった。
この許す前提がなかったのは一平の不倫も同じである。一平は実は『半分、青い。』の律と同じレベル(幼い頃からお互いの心の深いところを理解できる唯一無二の存在)のヒロイン相手役だったのに、そんな強い絆などなかったようにあっさり若い女と寝て子をなして千代を捨てた。それまで見てきた何か月ものドラマを一瞬で破壊する暴挙だった。もっとも一平役の成田凌はこうなることがわかっていたせいか、千代に深入れしすぎない微妙な距離感で演じていたようにも見え、そのせいで夫婦に見えないことも多かった(そういう感想もけっこうあった)。こうやって混乱を生じさせる拙い脚本だった。第2週子役の一平を見ていて後にこんな残酷なことをする人間にはとても見えなかったし、そんなクズ男に変貌する過程もなかった。どうやら女好きらしいというセリフは度々あったが、それでも千代を気にかけ見守る姿がずっとあり、まさか子供ができなかった孤独な千代より我が子を産む女を選ぶとは思わなかった。そしてこの唯一無二の存在の一平に不倫されて捨てられて、その不倫相手もまるごと全部許す千代の心境がとても理解できなかった。これも普通の男女、例えばシズと延四郎なら許す気持ちもわかるのだが、史実に合わせたためかソウルメイト一平を不倫離婚のひとでなしにしてしまったので、ひとでなしを許してしまう千代がよくわからなかった。

とにかくこの脚本家は全編通して下手だったと思う。キャラ作り、ストーリー作り、日常会話のだるさ、情報量の少ない冗長なセリフ、くだらない笑いの多さ。劇中劇との絡め方も終盤は凡庸。熱心だったのは逆転劇、視聴者をあっと驚かせること。朝ドラを知らなかったのか意図的に排除していたのか、誰もが見て安心できるキャラの少なさ、おもしろ担当の不在、ヒロインになにも起こらない時期を担うキャラ層の薄さ。テコ入れで生瀬勝久と塚地武雅を朝ドラらしい信頼できるキャラ、おもしろ担当として投入して視聴率は回復した。が、そのせいで『おちょやん』らしい意地悪や嫌味をもった人間ドラマの味は薄れてしまった。『エール』でさえ生瀬勝久のようないい人なだけの業界人はいなかったのだから、ドラマのバランスが崩れて当然。終わってみれば印象に残ったのは千代の女優人生で出会った人達よりテルヲや一平という、千代のダメンズヒストリーのようなドラマだった。

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名前無し

脚本家は土地狂いましたね。確かに終盤は最初のころに比べればまともな朝ドラになってきて見やすかったけれど、序盤から後半にかけて酷かったです。おかげで視聴者から避けられて近年の朝ドラとして最低視聴率を更新してしまいました。もちろん数字だけでは判断できないけれどリアルタイムで見たい気にはさせないほど魅力がありませんでした。人間をありのままに描くのはいいけれど、娘売り飛ばしネグレクトゆすりたかり脅し暴力放火未遂不倫など朝から見たくないような酷い場面の乱立で見るに耐えなかったです。人間をありのままに描くにしても不幸を描くにしても方策を誤りましたね。朝ドラの視聴者のニーズを考慮してほしかったです。コロナ禍で鬱屈しているのになおさらです。そしてヒロインですが確かに杉咲さんは頑張りましたが、脚本が悪いのか演出が悪いのか定かではないが終盤の設定は40代中盤なのに老けメイクも中途半端だし演技も録画で見直してもヒロインの成長が感じられませんでした。ドラマも後出しのご都合主義が目立ち雑で脇役もモブが多くて近年の朝ドラとしてトップレベルとか秀作とかは言い難く見る方に不快ばかり与えた異色作でした。

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名前無し

人間には感情と人格がある。
視聴者も演じる俳優も作中の登場人物も。
それがわからない、人に対する尊厳の気持ちがない脚本家の作品は二度と見たくない。
自分が感情を弄ばれるのも、感情と人生を弄ばれている人を見るのもごめんだ。

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名前無し

「おちょやん」の無神経さが不快で大嫌い。
脚本・演出が無神経だから、当然ヒロインの千代も無神経。
普通なら千代の言動を注意してくれる立派な大人や親友・仲間がいそうだが、そんな人間は誰一人出て来ない。もしいたとしても、すぐに千代ちゃんの謎の人間性でみんな丸め込まれる。
ドラマの中で語られる千代像(製作者が思い描く千代像)と、自分が感じる千代像がかけ離れ過ぎていて、物語や感動がすとんと落ちてこない。製作者はこういうことを言いたいんだなと考えながら、自己を補正して見ないと意味が全然伝わってこないから、すごく気持ちが悪いです。

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名前無し

あくまでも個人の感想ですので、一方的であればすみません。

「おちょやん」は、主役級の俳優さんがたくさんおられるわけでもなく、最近の朝ドラでは珍しいのではないかと思いました。知らなかった脇役の方や、エキストラに近い方も、演劇、映画、TVドラマの世界では当たり前のことですが、重要な役割だということも改めて感じました。多の方が関わって作品が出来るのを、リアルに体現されていますね。本来役者さんが劇中劇で役者さんを演じるのは、加減が難しいだろうと思いながら見ています。

杉咲花さんは、千代ちゃん役とは別に、女優役もこなさなければならないし、何よりも大阪弁が大変だったと思います。杉咲花さんの、身体を張った演技には毎回すごいと思いながら見ています。同世代、もっと上の世代でもここまで演じる方は、少ないのではないかと思います。

すでに収録を終えた子役の毎田暖乃さんは、ドラマとは違って言葉遣いが丁寧でしたが、千代ちゃん役になり切ってしまうところがすごかったです。お父さん役のトータス松本さんと二人の「千代ちゃん」、今ではこの父娘でないと「おちょやん」ではないと思うくらいです。それにしてもここまで人間くさいドラマは本当に久しぶりです。しかも朝ドラでここまでリアルに格好をつけずになかなか見られないと思いました。千之助さんも、ここまでせんでも、という気持ちが、笑いになったのでしょうか。嘲笑だったら劇団に参加しなかったと思いました。

女形を演じておられた漆原さんを見ていて、子供のころに見た映画の時代劇で
「雪之丞変化」を思い出しました。男女二役を見事にこなされていて、長谷川一夫
さん、大川橋蔵さん、美空ひばりさんがそれじれ演じておられたのを覚えています。
子供の時だったので、男女の一人二役が強烈だったせいでしょうか。
漆原さんに「おちょやん」でやってもらいたいと、つい思いました。

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名前無し

すべての登場人物に共感できない。理由を上げてみる。
まるで世界は自分のために回っているような千代ちゃんの生き方。新人女優は、挨拶をしたら大部屋の隅で座っているべき。撮影中、エキストラなのに茶店の人に話しかけたこと。女優になりたいなら、こんな初歩的なミスは絶対にダメ。
六角さんの姿にドンビキ。これは朝ドラでは絶対に観たくない。監督のヘタな英語が聞き取りにくい。
千鳥さんのキャラは、視聴者に受け入れられなかった。
安岡の人たちと千代ちゃんとの関係もしらじらしい。
戦前までは、お茶子、女給、女優などを職業とする人は、なんらかの暗い事情があったのだろう。
しかし、そのような状況にあっても、他者と良い人間関係を築き、誠実に、前向きに生きた女性はいただろう。残念ながら、千代ちゃんに関わる人との関係性が希薄で、千代ちゃんは我が道を行く。
加えて、千代ちゃんは生意気でこざかしく、自己中である。こんな主人公を子供たちに観させたくない。
他にもつまらない理由は多々あるが、何よりもストーリーが破綻している。
6月まで放送するのなら、脚本、演出、主人公のキャラにテコ入れすべきだ。

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名前無し

もう40年近く朝ドラを見ていますが、おちょやんは10本の指に入る秀作と云えるでしょう。
普通の朝ドラらしくないので、見る人を選ぶ傾向はありましたが、ドラマとしての完成度、内容の深さ、主役である杉咲花さんの卓抜な演技など、あらゆる角度から称賛に値するものでした。
現実の過酷さや人間の負の部分を余すところなく描いて、それをまた杉咲さんが渾身の演技で演じる。
彼女はただ千代を演じるのではなく、その泣き笑いの人生を、みずから生きているような気迫がありました。
よくあるように、人気タレントや話題の人をこれでもかと登場させて視聴率を稼ぐのではなく、あくまでドラマとしての質に重点を置くやり方が、この結果を導いたと云えるでしょう。

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名前無し

ドラマの途中でテルヲもヨシヲも亡くなってしまったときは、このドラマも一段落したかなと、一時的に寂しい思いをしていました。お二人のキャラと存在感があまりに強烈だったので…。
そんなとき、まさかの栗子と春子の登場に驚かされ、千代を交えて三人が醸しだす、なんともなごやかで愛情のこもった雰囲気に、すごく満たされた思いの数日間でした。
やはりこのドラマは、肉親との愛憎の描き方が抜群ですね。作者の方の個性なのでしょうか。それからすると一平との関係、みつえとの関係などは、どちらかというと淡白に感じました。一平とは夫婦というより、ある意味サバサバした同志みたいでもありました。まあ、それはそれで悪くなかったのですが。
いまでもテルヲとの最期の面会場面やヨシオとの再会の場面、栗子や春子との短いが愛情に満ちた日々を思い出すと、じーんと胸が締めつけられます。
このドラマは人間の醜さも恐れずに描いたかもしれませんが、一方で泥のなかに咲く清らかな白い花のような、人と人との愛の暖かさ、美しさを余すところなく描いてきました。それに気づくことが出来て、とても幸せでした。

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名前無し

花籠の贈り主は栗子でした。このネタで一週間。『おちょやん』はこのように一つのネタで一週間のドラマとなっていて、各週のつながりがほとんどないのが特徴。「連続テレビ小説」になっていないのでいまだに視聴率が低いままなのかと思う。特に栗子の花籠については伏線どころか脈絡もなく、もはや脚本家も開き直ったのか道頓堀の様子は一切差し挟まれず、ひたすら千代と新キャラとキャラ変の栗子だけで描いた一週間だった。結局この脚本家は、千代も道頓堀のメンバーも、千之助以外ほとんど好きじゃなかったのではないかと思う。

花籠の贈り主について、私はコロナの影響で当初の予定が狂って誰が贈り主でも辻褄が合うようにわざとぼかしていたのかと見ていたが、なんと最初から栗子は贈り主として再登場する予定だったと聞いて唖然とした。だったら最初の栗子の描き方を間違っている。村の男をカモにするような素振りなど全く必要なかったし(あのせいで栗子はかなり悪女に見えた)、栗子が芝居を好きな風に見せることも花と結びつける映像も必要だったろう。花籠に関しては千鳥や一平など候補者にもカモフラージュで花と関わりのある映像を見せるべきだったと思う。とにかく無駄な描写がかなり多いのに肝心な映像が入っていないので提示される事実が唐突すぎる。一平の不倫とこの花籠ストーリーはそれまで描かれてきたドラマからかなり浮いていると思った。

ドラマがわかりにくいとの声が多かったせいか千代のモノローグ(心の声を本人が言うこと)が増えているが、これも朝ドラではわかりにくいので効果が無いと思う。朝の忙しい時間に放送されるドラマなので、画面を見なくてもわかるように主人公の心の声はやはりナレーションに任せた方がいい。そのためのナレーションで、そうでなければ主要なキャラが主人公に気持ちを語らせるのが普通だ。今作はキャラが少なすぎて、主人公の気持ちを聞いてやれる人がとにかく少ない。残り一ヶ月を切って千代の本音を話せる相手が孤独な人生の諸悪の根源・栗子だけというのはなんとも皮肉な話である。岡安のシズやみつえや一平とはいったいなんだったのだろうか。ずっと心配そうに見守ってくれていた岡安の旦那や息子のような寛治の存在はなんだったのか。今作は、家族の絆・人と人との絆を描いてきた朝ドラの伝統を見事にぶっ壊した作品として記憶に残りそうだ。

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名前無し

「そのくらいで死んでたら10回は死んでる」とか「柔らかい声と言葉」とか、都合の良いところだけモデルさんから借りて来るが、千代はモデルさんからかけ離れた人物。
なのにそれをやるからちぐはぐ感が半端無い。

回数はともかく、一平の一件以外千代に死にたくなるほどの状況があったか?
実家を追い出されたのは可哀想だが、岡安は居心地が良かったんでしょ?
だから年季が明けてもずっと居たかった。
それをテルヲが居られなくしたように見せていたが、借金は道頓堀の皆さんが払ってくれたんだから居ようと思えば居られたはず。
京都でテルヲに有り金全部持ち逃げされたのも千代が不用意にテルヲをカフェーに引き入れたからで、自業自得。
そのテルヲも死んでくれてホッと出来た。
ヨシヲも身の振り方も付けてやらずに逃がしただけだからさほど大切に思っていたとは思えない。
そもそも子どもの時以来ずっと会えずにいたのだから死んだと聞かされても死にたくなるほど哀しくなくてもそれは当然。
戦争中、芝居が出来なくなり絶望していたが、戦争は国民全体的に降りかかった不幸だし家族2人を空襲で(その後夫まで)亡くしたみつえの不幸とは次元が違う。
このように暗い話ばかり見せられているのに「そのくらいで死んでたら10回は死んでる」という言葉に説得力を持たせられない残念な脚本。

昨日からちょっと言葉を柔らかくしたが白々しい辻褄合わせだ。
「柔らかい声と言葉」が重要になるのはこの方をモデルにすると決めた時からわかっていたことなのにあのきつくて刺々しい物言いを放っておいた演出もダメ。

場面だけを切り取れば決して良い場面が無い訳ではない。
でもそこに至るまでの行程を丁寧に描かず制作側の脳内補完を押し付けられるから感動なんて出来ない。
このドラマはその連続。

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千代はどんなに辛くても、芝居だけは最後までやり遂げると自分に誓っていたはずだ。それが不覚にも千秋楽の舞台で、一平との日々の思い出が走馬灯のように頭を駆けめぐり、涙で芝居を中断せざるを得なくなった。もしかしたらその残酷な事実が、千代の最後に残った気力までをくじいてしまったのではないか。

愛して尽くした相手からぼろ布のように捨てられた。幼い日に父から捨てられたように、今度は最愛の夫から…。なんという人生なのだろう。少なくとも相手の女に子供がいなかったら。もしかしたら一時の浮気として、夫は自分のもとに帰ってきてくれたのではないか…?
いろんな思いが千代の頭を駆けめぐっただろう。本当は一平にすがりついて、行かないでと泣きたかったかもしれない。しかしそれが出来なかったのは、相手の女のお腹に、子がいることを知ったからではないか。その子を、かつての自分のように不幸のどん底に落としてはいけないと、自分に言い聞かせたからではないだろうか。

しかしどん底に落ちたら、あとは這い上がるしかない。味わった苦しみが大きければ大きいだけ、それを跳ね返そうという力も湧いてくるはずだ。時間はかかっても、絶対に千代は、このまま悲嘆の淵に沈んだままではいない。幼い日に父から捨てられ、数多の困難を乗り越えてここまで生き抜いてきたのだもの。神は克服できぬ困難は与えられない。あとは不屈の千代が、不死鳥のように鮮やかによみがえる日をただ待とう。

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今週は千代にとってとても辛い話になったが、そんな中で20日の放送ではこの番組の大黒柱の一人だった大山社長が静かに姿を消した。
大山社長と言えば、強面でやり手経営者というイメージで、このドラマを男のドラマのように思わせる一人だったが、節目節目で千代を導いてくれていた。

父のために道頓堀を去った若き千代を京都撮影所に迎え入れたのも、家庭劇を作るので道頓堀に送り出したのも大山社長だった。
戦争末期には家庭劇を見捨て、一時は千代も大山を恨むが、戦後、道頓堀の灯を消したくないとして、地方巡業していた千代はじめ家庭劇の一座を呼び戻したのも大山社長である。
前週、初めて千代が主役を務めた舞台を誰よりも真剣に見ていたのも大山で、一段と成長した千代を見て本当に嬉しそうだった。

その大山社長が病気の中を無理して「岡富」の店に千代に会いにやってきた。病気に悪い酒を、無理して美味しそうに飲み、千代にも盃を返した。直接の用事は、天海の浮気の原因を、芝居の新作が書けす苦悩した天海の弱さにあると伝えに来たのだが、そんなことは千代には分かっていた。千代はその気遣いに感謝して、何があっても芝居を続けると約束する。そして、店を出た大山は外で待っていた天海に「道頓堀の灯を消すなよ」と語りかけて、覚束ない足取りで去って行った・・・。

千代とは別れの盃を交わし、天海には道頓堀の灯を託して去って行った大山社長。一生をかけて築いてきた道頓堀の芝居文化を2人に託したい一心で、夫婦の仲を何とか取り持とうとした大山社長。その顔はもはや強面ではなく、好々爺の微笑をたたえていた。その後ろ姿には哀愁が漂っていた・・・。

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ヨシヲ役をやられた倉悠貴さんのインタビュー記事をみて、とても懐かしくなりました。千代とヨシヲとの再会の週はこのドラマでも白眉だと思いますが、来週はまたヨシヲが再登場するかもしれないと期待しています。あの週は杉咲花さんの演技の秀逸さもさることながら、倉悠貴さんとの息がぴったりあって、息詰まるような迫真のやりとりでした。
家族からも見捨てられ、飢え死に覚悟でいたところを見も知らぬ人に拾われ、生きるため悪の世界に身を染めていく。そんなヨシヲには今更姉に「片時も忘れたことはない、ここに一緒に住もう。御寮人さんらも受け入れてくれる」と言われても、絵空事にしか聞こえなくても無理はありません。
でも口では相手の言葉を邪険に拒否しながらも、それでも心の何処かでともすればそれを受け入れたいという思い、その心の揺れが巧みに表現されていました。
幼いときから誰も信じることができず、ただ目の前に現れた救いの手にしがみつくようにして生きてきた少年の、周囲への怒りと恨み、自信のなさ、不安に揺れ動く思いなどが、実にリアルに浮かび出ていました。
ヨシヲの揺れ動く思いに対して、ただ弟に巡り逢えたことが嬉しくて、なんとか彼と心を一つにしよう、離れていた間の空白を埋めようとする千代の必死の願い。
それら各々の思いが、噛み合わないようで何処かでふと触れ合って、またスッと横にそれてしまう、そんな切なくなるような時間の流れが、お二人の好演でドキドキするような臨場感で見事に演じられていました。

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竹林の道で慟哭する千代の演技は圧巻だった。
このドラマは一話の中にいろいろなことが詰め込まれているので、あっさりとは理解できない面があるが、あの慟哭のシーンは千代が役者として留まれるかどうかの瀬戸際の苦しみだったと思う。

その前に、夜な夜なこっそり稽古場に行き、ネコを相手に小声で稽古をしていた。しかし、一平は戦争を鼓舞した劇を作ったことを後悔したのか、飲み歩き荒れている。食糧を分けて貰いに訪ねた農家では、役者なんて・・世の中の役に立つことをしろと冷たく言われる。次第に自信を失くす千代。

農家からの帰り道、竹林の続く郊外の静かな道を千代は一人トボトボと歩く。もう劇なんて出来ないのだろうか?そんな思いが去来していたのだろう。「人生双六」の台詞を小さな声で呟いていたが、「生きててもしょうがない・・・」という台詞のところで、ガックリと膝を折った。「出えへん・・何だったかな?」あんなに好きだった芝居の台詞を忘れてしまった。何か言おうとするけれど、言葉にならない。ただ、泣き崩れるばかりだった・・・。
千代の気持ちを思うと胸が痛む。
私はあの暗い竹林の道に、子供時代の千代が家を去るシーンがふと重なった。あの道は今度は千代をどんな人生に向かわせるのだろうか・・・?

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今週のエピソードは完全に失敗。
脚本家は子供にとっての親、親にとっての子供、この両関係をなめすぎ。
初週のテルヲ千代ヨシヲエピから始まっていた。この脚本家は肉親の情がわかってないよ。
千代というヒロインは実は子供ほしいんでしょ?自分が不遇だったからちゃんとした家族を欲してる。そこに表れた男の子。無関係の子供を親の気持ちで守ろうとする未熟な、でも健気な千代。この話をたった五日でちゃっちゃと終わらせるとかできるわけないじゃん。
こんなの普通の朝ドラなら何週間もかけて描くよ。
そして子役を使う。千代の子役のように、この寛治役だってできる子役は絶対いたはず。
そういう手間暇をかけずに雑にドラマにしてるから視聴者がついてこないんだよ。

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毎回期待を持たせる思わせぶりの展開が旨くて面白いが、そればかり拘って人間が描けていないと思います。そのため御寮人さんと宗助が夫婦に見えずみつえもこの夫婦の娘に見えない、また福富の喫茶店で千代とみつえの友情も取ってつけた感じだし、そこへ来たみつえの夫福助も空気でした。鶴亀家庭劇の劇団員も烏合の衆で魅力がありません。これで道頓堀で須賀廼屋万太郎一座と人気を二分する劇団とは嘘くさい。肝心の千代と一平も恋をして結ばれる過程が旨くなかったので二人が夫婦に見えない。結局人間が描かれていない上っ面のドラマで心に残りません。

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私はコネで主役を手に入れたと知って辞退した「エール」の音が、やっぱり好きだ。だから千代を好きになれないのかもしれない。
この二人は育ちが違うので、コネを使ってでも這い上がろうとする千代の気持ちもわかる。愛に満たされて生きてきた音と寄る辺のない千代は全然違うから。
でも、やっぱり朝ドラでは、努力と人のご縁で人生が上向きになるところが見たい。千代にはもっと努力して成功してほしいし、その努力をみんなに認められてほしい。
このドラマの大女優、高城百合子は、「エール」の千鶴子の足下にも及ばない、身勝手で無能な女に思えてきた。置き土産のようにド素人に大役を与えて、何様のつもりか。千代のためにはならない。

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花ちゃんに変わって一週間。まだそんなにしか経ってないのかとちょっと驚く。それほど内容が濃かった。
それにしても、杉咲さんの演技力を改めて認識させられた。
「夜間観覧車」の壮絶な演技を見て、この子はすごいと思っていたが、ただすごいというよりも、天性の資質のひらめきがある、というのが今週の感想。

シズに「延四郎に会ってくれ」と迫る場面は圧巻だった。
語調から顔の表情、がらりと変わる目の光、迫力、学習して作為的にやっているものではない。
周りの役者たちが息を呑んで演技を見守っているようだった。
まだ若いが、この人なら、たぶん座長としてチームのだれもを納得させる力があるだろう、と想像できる。
そして、一代記をやるのにこれほど適した人はいないだろうな、とも。

朝ドラで妹役をやった実力ある新人は、いずれ主役に抜擢されるというジンクスがあって、今まで数々の女優がそれに乗ってきたが、杉咲さんは、その中でも抜きん出た才能のようだ。
制作チームが盛り立てて、いかんなくそれを発揮させてあげてほしい。
(余談だけど、次なる才能は、清原果耶ちゃんと期待。)

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名前無し

先日からこの部屋ではさまざまな意見が飛び交っています。本当は昨日この番組の感想を投稿したかったのですが、それが出来そうな雰囲気ではなく、ためらっていました。しかし、この投稿欄は番組のレビューを書く欄です。また、1週間に1度は星付きの投稿が権利として誰にでも認められています。
私はこれまでもこの規約を守って投稿しています。録画を見直したり、背景を調べたりして1日近くかけてせっかく原稿を書いたので、こんな状況で迷いましたが、あえて星を入れて投稿させて頂きます。

「おちょやん」は印象に残るシーンがとても多く、私が杉咲花さんの魅力に気付いたのは3週目の冒頭でした。
それは、杉咲花さん扮する千代が手にいっぱい座布団を抱えて、「ごめんやっしゃ!ごめんやっしゃ!」と道頓堀の通りを小走りに走り過ぎるシーンです。生き生きした表情、きびきびした仕種、巧みな足さばき。その姿には、毎日を元気いっぱいに生きる若々しさが満ちあふれていました。
17歳になった千代はおちょやん(おちょぼ)、つまり下働きの女の子を卒業して一人前のお茶子になっていたのですね。千代の役目は岡安の客が芝居小屋で使う沢山の座布団を桟敷に運びこみ、枡席に敷きつめる仕事です。桟敷では、ライバルの芝居茶屋、福富のお茶子たちもすでに来ていて、千代を見ると、ついこの間まで子供だった千代のことを「読み書きひとつでけへんかったのに、大したもんやなあ。お・ちょ・やん」と、「おちょぼ」と「お千代やん」を掛けてからかいますが、「今日はお客さんがぎょうさん8組40人かそこら・・。福富はんは2枡8人。楽でよろしなあ。羨ましいこと!」と相手にほげた(減らず口)でいい返す千代が小気味よかったです。
これはライバルお茶子同士の朝のお決まりの?掛け合いみたいなものだったのですね。双方とも言うだけは言わないと、一日が元気に始まらない気がするのでしょう。
岡安の女将や旦那さんたちにも重宝がられ、先輩たちにも可愛がられて、すっかり道頓堀の生活に慣れ親しんだ千代のぴちぴちした姿を見て、ここからどんなドラマが始まるのだろう?・・思わずそんな期待を抱かせてくれました。巧みな物語の導入部だったと思います。
今、思い返しても懐かしいシーンです。

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名前無し

人によって俳優の見方、評価はいろいろあってよいと思います。
だから私の感じを率直に言わせてください。私は、杉咲花の演技にお嬢様的なものは感じず、むしろ、芯の強さを感じました。そして、厳しい競争の中で一生懸命頑張っていたように思いました。
些細なことと笑われるかもしれませんが、お茶子時代に岡安のライバル店福富のお茶子たちと商売で張り合う場面での、気の強そうな啖呵のきりかたなど、胸がすくような感じがしましたし、そこに戦前の活気あふれていた道頓堀の雰囲気の一端を見たような気がしました。
杉咲演じるお茶子時代の千代は道頓堀の雑踏の中で一生懸命生きていて、明るく元気に振舞ってはいましたが、親の愛に恵まれずにこの街に来て、弟とも生き別れ、亡き母を思い、いつの日か弟との再会を夢見て、一人寂しさに耐えていたといういじらしい一面もあったと感じました。ふと一人になって、月を見上げながら見せた微妙に寂し気な表情は忘れられません。ですから、私の場合は、頑張っている千代ちゃんを応援したいという気持ちになりました。

その後の京都撮影所や鶴亀家庭劇などの時代でも、競争の中で頑張っているからこそ、一生懸命自己主張もしたし、自分が正しいと思ったことは臆せず言ったし、憎い父親には容赦もない言葉も投げかけたけれど、それは、決して威張っていたわけでもないし、上から目線でもなかった、千代の心からの叫びだったと、私個人はそう思いました。
これはあくまで個人の感想です・・。

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