トクヨさん、そうです。竹中半兵衛は稲葉山城を乗っ取たけど、すぐに殿へ返しています。「それだけ、手薄なのでは織田にやられますよ!」という殿への忠告でしょうか?
戦国時代における天才軍師といえば…
武田信玄の山本勘助
今川義元の太原雪斎
豊臣秀吉の黒田官兵衛、そして竹中半兵衛ですよね!
トクヨさん、こんばんは。648の件、谷原さんが麒麟がくるに出演されているのは全く知りませんでした。またまた自分の無知さを痛感しました。スレ主さん、649の件、そう仰って頂き、誠にありがとうございます。気が楽になりました。また、一部の投稿者が原因で優良投稿者の方が去ってしまうのは非常に残念と共に怒りを覚えます。規約違反になるのでサイト名は明かせませんが自分が過去に投稿していた掲示板サイトも荒らしはいました。自分はそれが嫌でそのサイトから去りました。自分の中ではお茶の間は本当に素晴らしい方々が揃った掲示板だと思っています。
百田夏菜さん、やうぼさん、コメントありがとうございます。
戦国の軍師には尼子義久の山中鹿之助幸盛、竜造寺隆信の鍋島直茂、大友宗麟の立花宗茂あたりもどうでしょうか。
谷原章介さんは643に書いたように足利将軍家幕臣(お側衆?)で細川藤孝の異母兄の三淵藤英の役で登場してますね。第一回に光秀が堺に行った時に出会ってます。松永弾正は嫌ってましたが。
本能寺で鉄砲作りは、眉唾ものだと思って、調べましたが、どうもなまじ嘘ではなさそうです。
本能寺は早くから種子島や、大阪の堺で布教活動をおこなっていたので種子島にたくさんの信者さんがおりました。
その種子島に1543年に鉄砲が伝わります。
このことから本能寺に依頼すると鉄砲や火薬を手に入れるのが楽だったようです。
信長もそこに本能寺の利用価値を見い出し、境内地の安堵(禁制朱印状)を約束する代わりに鉄砲や火薬の交易の手助けを促したようです。
百田夏菜さん、コメントありがとうございます。
何でもよくご存じで好奇心旺盛な方ですね。才気煥発の才媛ですよね。とても勉強になりました。
本能寺とは、そういう繋がりがあったのですね。
だから、京都に来たときは、信長は、ここを宿所にしていたのですか。
寺は、ただの寺で、坊さんしかいないイメージがありますが、そんなに深く商売や戦争に関わっていたのですね。
比叡山も浅井、朝倉に協力し、軍事戦略の一部になってるくらいだから、ほかの寺も軍事に関わっていたのですね。
べえべえさん、コメントありがとうございます。
全くもって同感です。延暦寺に僧兵がいて加賀は一向門徒が支配してましたが、本能寺は法華宗の寺なので気づきませんでした。
知らないことだらけですし学者の一般向けの本にはここまで載っていません。勉強になります。
本能寺に織田軍団が宿泊した後は、ボロボロにしていくため、お坊さんは困ったらしいです😒
井頭愛美さん、おはようございます。コメントありがとうございます。
本当に何でもよくご存じですね。私は新選組とか近現代史は掘り下げた本も持ってますが、戦国安土桃山は一般向けに書かれた昭和の学者の本と司馬遼太郎だけで到底敵いません。
今回いろいろ教えて頂いて本当に嬉しく思っています。これからもよろしくお願い申し上げます。
本能寺から武器工場だったなんて?
お寺なのに…😂
なんとも皮肉ですね😒
ごめんなさい(>_<)
訂正です。
本能寺から→本能寺が
今日は本能寺がテーマとなりますね☺
本能寺と種子島が堺商人の知らないルートで火薬のやり取りをしていた説があるみたいです。
鉄砲があっても火薬がないと…意味ないですからね😃
やはり、本能寺は殺人兵器を作っていた❔
いろいろ想像しますよね❗🐧
芳根京子さん、井頭愛美さん、コメントありがとうございます。
「敵は本能寺にあり」。光秀は信長だけのことを言ったのでしょうか。新たな疑問です。
本能寺特集日ね!OKです。
本能寺の変当時の本能寺は今よりもっと大きく広く、またお寺の周りを高い塀と深い堀で囲い、城塞になっていました。
織田軍団宿泊の時は、お坊さんを追い出して、宴会等していたとか?
みたいです。
百田夏菜さん、コメントありがとうございます。
本能寺の織田軍団は西本願寺にいた新選組とは比較にならない規模だったんですね。いやあ、本当に勉強になります。
本能寺はもとは別の場所にあったんですよね。
信長は本能寺の変の前日はコレクションの茶道具を披露していた、と言う説も聞いたことがあるのですが?
話題は変わるのですが、本スレで、京都で駒を助けたのは斎藤道三だというコメントを見ました、suboさんもそうおっしゃっています、道三は若い頃京都のお寺に居たことがあるらしいです、光秀の父とばかり思ってたのに、道三とは思いつきませんでした。
トクヨさん、ホントですね。道三調べたら、京都にいたことありますね。
道三 は幼名を峰丸といい、11歳の春に京都妙覚寺で得度を受け、法蓮房の名で僧侶となっ た。
と…あります。
スボ様、さすがです。
トクヨさん、百田夏菜さん、コメントありがとうございます。
駒を助けたのは誰か。
私には何とも言えないですね。これから先の展開を楽しみにしています。
トクヨさん
本能寺の変の前日は茶会です。
信長は自慢のコレクションの茶道具を得意気に披露したと思われます。
京子さん、京都のお公家さんたちを呼び出してご自慢の茶器を見せ、「オレ凄いだろう」アピールの後夜の宴会🥳、茶会だったんですよね、最期のパフォーマンスだったと、確か歴史秘話ヒストリアで…
茶会なんてしてる場合じゃなかったんだ❗
前日に信長、情報得てたら…どの方向に逃げただろう❔
芳根京子さん、トクヨさん、井頭愛美さん、おはようございます。コメントありがとうございます。
「国盗り物語」では本能寺の変の前夜に信長が信忠を引き留めて上機嫌で酒を酌み交わしていたと思う。濃姫が「ご気分がよろしいようで」と言ってたかな。記憶曖昧だけれど。
信長が、本能寺の変を事前に知って、逃げるところは、大阪でしょうね😓
ここには、四国征討軍14000の軍を率いた息子がいました。
芳根京子さん、コメントありがとうございます。
三男の織田信孝と丹羽長秀ですね。信孝に光秀の協力者として討死にさせられた信長の甥の信澄も従軍していましたが光秀の娘の夫ですがどうだったんでしょうね。濡れ衣ですか。
百ちゃん
ようやく本能寺の火薬でてきましたね。自分も川柳部屋に、火薬の入手経路に気が回らない光秀は、戦国の知将とは思えないと二週前位に書いたけど、「麒麟がくる」は、そこに関心むいたのかな?最新回は見てないからわからない。国内での火薬生産は飛騨で行われるようになる。合掌造りも、その硝石とることと、関連するらしい。
あとは、南蛮寺も本能寺の近くにある。これは、情報網と関係するはず。
火薬の話は、八切止夫が、小説の形で早くから出していたよう。
自分の仮説は、本能寺の変には火薬貿易を巡る見通しが関係してるだろうということが半分。関連して、ポルトガルの鉄造船に関していわゆる日本の水軍(海賊)を通じた情報があったはずということ。四国にも水軍の基地があったはず。今治に博物館あるのでは?
火薬まできてるなら、また近いうちに少し仮説を発展させてみたいけど、年度末関係するのか、時間の見通しがあまり立たない。
愛宕百韻は水軍も光秀よりに協力するという宣言🦆
結局、信長の首を手に入れられなかった、光秀に味方はつかず、秀吉が情報船を勝利した。秀吉は水軍禁令を出してるが、朝鮮出兵はしてる。明制圧まで計画してたのか、その際の火薬の入手経路の見通しは?
毛利制圧の見通しがつき、石見銀山の銀でポルトガルから火薬入手の目処がつき、信長が家康も読んで、ポルトガル人と話をつけて、海外拡張政策を宣言する予定があり、水軍系の情報が、それをしだすと、鉄造船と大砲も必要になり、無限に火薬が必要になり、経済的にヨーロッパに支配される可能性があることを指摘し、国論を二分して信長の中国進出路線に反対し、光秀を担いだ勢力があった🦆が、自分の仮説のもう半分だった🦆
「麒麟」そういう国際情勢の中での光秀擁立の動きを描くかねぇ?
時間がないから推敲しないで投稿する。失礼。
43さん、ありがとうございます。
鉄砲までの研究は、姉妹で、ある程度できたんですが、問題は『火薬』…これが、さっぱり分かりません。
本にも鉄砲のことはあっても、火薬のことは、あまり載ってません。
情報ありがとうございます。🐧
【鉄砲作りの苦労】
種子島の領主、種子島時尭は金兵衛という鍛冶屋に、ポルトガル人について鉄砲製造技術を習得するようにと命じます。
しかし価値のある技術だったので、無償では教えてくれませんでした。
金兵衛には17才の娘がおり、この娘をポルトガル人に与えることを条件として、製造の技術を学んでいます。
金兵衛の娘は人身御供になったのでした。
なんともかわいそう😥
43さん、ありがとうございます。
本能寺で火薬(塩硝)が作られていたかどうかは?よく分かりません。
硝石を種子島ルートで輸入していた可能性の方が高いかも?
火縄銃で使う黒色火薬は、硝石75%、木炭15%、硫黄10%を混ぜて作りました。しかし戦国時代の日本では、硝石は採取できず、中国やインドからの輸入に頼っていました。そのため、硝石の代わりになるものとして「塩硝」がつくられるようになりました。
「塩硝」は、ヨモギや麻、シソやツユクサなどの山草や蚕の糞、人間の尿などと土を混ぜ囲炉裏の熱で4~5年かけて発酵させて、まずは「塩硝土」を作ります。囲炉裏の近くの床下に1.8~2.1mほどの深い穴を掘り、塩硝土のもとを入れて、年に何度か土をかき回します。4~5年経った頃には、上の方の土に硝酸カルシウムの結晶が多く含まれるようになります。できあがった「塩硝土」に水を加え、それを釜で煮詰めた後に濾過するという行程で、「塩硝」をつくります。この「塩硝」だけでは発火はしないので、ここに木炭と硫黄の粉を混ぜ、黒色火薬をつくり、火縄銃に使用します。
43さん、井頭愛美さん、芳根京子さん、コメントありがとうございます。
43さんには百田夏菜さんからお答えがあるのかな。
ネットには火薬の歴史いろいろありますね。私の知らないことだらけ。
日本人が教わった鉄砲は性能がよく、文禄慶長の役で明や朝鮮の李朝の物より遥かに優れていたと学者の本で読んだことがあります。
スレ主さん、相当専門的なことになって申し訳ありません。
43さんの言う四国の水軍の基地とは村上水軍のことですかね?
日本の海戦は、表舞台には出てこない村上水軍がほとんど主導しています。
①源平合戦
②元寇
③毛利と大内の海戦
④毛利と織田の海戦
いずれも、村上水軍が大活躍しています。
今治にある博物館とは…
大山祗神社の博物館のことを指しますか?
ここには国宝級の甲冑の4割が展示されています。
百田夏菜さん、コメントありがとうございます。
詳細な知識にはいつも感心しています。そして勉強させて頂いておりとても感謝しております。
私レベルの知識の話ですが、司馬遼太郎は「関ケ原」で西軍についた熊野の九鬼嘉隆を描き家康が海上からの攻撃に右往左往する様子を描いています。息子の守隆は東軍に付き幕府は熊野水軍を警戒し守隆の子を三田、綾部と言う内陸部の小藩に押し込め明治に至ったとされています。
こういうところに詳しい人いないのかな?
村上水軍博物館
〒794-2203
愛媛県今治市宮窪町宮窪1285番地
電話番号:0897-74-1065
水軍は真言宗とも関連してるから、善通寺とか宇田津あたりと、中国に空海以来の独自の外交ルートか交流史がありそうだけど。
愛宕百韻の愛宕神社も真言宗と関係あるはずだし
43さん、これは、地元民でも難しいよ〰ぉ
姉にまかす❗🐧
43先生、回答①
空海は、大和朝廷の役人、遣唐使して唐に派遣されています。
たしかに、空海は、讃岐の中讃地域を治めていた佐伯氏の一族ではありますが、佐伯氏と唐との直接交流はありません。
その後も、空海ゆかりの善通寺と中国大陸との直接交流は、私の知る限りありません。
真言宗では、善通寺は金剛峯寺に続く№2のお寺です。五重塔もありますよ。
【青龍寺の復興】
青龍寺の復興は、1982年以来、西安人民政府が、青龍寺の遺址と伝承されてきた石仏寺周辺の発掘調査を行い、多数の唐代の遺物を発掘し、この地がいにしえの青龍寺であったことを確かめました。
青龍寺は復興され、そこには、日本からの寄贈で、空海記念碑、恵果・空海記念堂が建っています。また、元四国霊場会会長蓮生善隆(善通寺法主)により四国八十八箇所の零番札所と名付けられています。 (ウィキペディアより)
43さん、井頭愛美さん、芳根京子さん、685さん、おはようございます。コメントありがとうございます。
昭和史こそかなりの蔵書(世界史含む)がありますが、この時代は昭和の学者の数冊の本と司馬遼太郎全集(解説・尾崎秀樹)くらいで、到底私の知識では何が何やらですので、皆さんの活発な議論を期待しています。
43さん、ちょっとわかんないです。
村上水軍博物館は行ったことあるけど・・
善通寺は数えきれないほど行ったことあるけど・・
村上水軍と善通寺との関連性はあまり、感じられないです。
芸予諸島を中心とした村上水軍は能島村上家、因島村上家、来島村上家の三家に分かれていました。彼らの多くは真言宗徒であり、京都などに数多く菩提寺が残されています。彼らは通行船の安全を保障する代わりに瀬戸内海各所の海峡を関所に見立てた通航料の徴収し、平時は漁業にも従事していました。
一方、香川寄りになってくると村上水軍と並び称せられた塩飽水軍がいましたが、政治的独立性が極めて強く、歴史的にはあまり知られていません。
百ちゃん
さすがですね。歴史に残ってる(文書資料に根拠がある)ことと、技術的に可能性があることをどう区別して扱うかは、個人で決めるしかないと思います。
「いだてん」から派生して、宇田津が塩田で独自に発展したことに興味が沸いたのですが、そこら辺の寺には僧兵がいて、おそらく「塩飽水軍」もいて、東シナ海やインド洋の情報ルート(ポルトガル等のヨーロッパ勢のアジア進出に関する)を持っている可能性は、想像できないですか?聖徳太子や空海の六~八世紀に遣隋使船や遣唐使船があれば、その後八百年で、それなりの船舶関連技術(造船・航海術)の発展があるはずだと考えられます。また、佐伯氏出身の空海があまりにも短期間に中国密教の本質を取得し、様々な奥義書等を伝授され日本に輸入できたことから、佐伯氏も中国語に秀でられる素地(知識蓄積)があったと想像してます。中国の密教は空海に伝授したあと衰退したと思いますが、中国語力やほかの語学力の長所を生かして、宇田津あたりに、海外の宗教以外(政治・経済・国際関係・技術等)独自情報を収集解読する基地はなかったのですかね。
村上も含めて水軍がどういうものたったかは、あまり研究が進んでないのかもしれませんね。
43さん
すごいですね😄
他の人と推理することが違う?
また、調べて分かったことあったら、返事します。
空海は遣唐使として唐に渡る前から、来日していた唐の僧に密着して中国語を学び、習得していたそうですね、入唐してすぐに今度は「梵語」をインド人の高僧に師事して習ったとあります、梵語は密教を学ぶのに必須です、
頭の良い空海が語学に注目し、語学力が高かったのが有利だったところです。
遣唐使の頃は空海はまだ若い無名僧だったのに、一緒の船で中国に渡った歳上の最澄(すでに仏教界の重鎮だった)に先んじて、仏教の勉強に取り掛かれたそうです。
イタリアで活躍する現代のJリーガーがまずイタリア語を学ぶのと一緒だと感心するのは変な例えでしようか?
トクヨさん、善通寺市には弘法大師一族である佐伯氏の古墳があるんですよねぇ
小高い山になっているので、善通寺市に行くとすぐに分かります。
いわば、弘法大師は讃岐国の王子でありながら、頭も飛びぬけてよかった・・現在なら東大に悠々と合格できるほどの天才だったんでしょうね。
43さん、善通寺の古墳で壁画があり、船が描かれているんですよね。
もしかしたら…弘法大師の時代、宇田津港が海上交通の中心だったかも…
そして、善通寺市には日本でも珍しい標高約500㍍の場所に古墳があります。
もしかしたら…外国船を威圧する目的があったのかも…
43さんの推理は、資料にはなかなか出てこないんですよねぇ
北米に最初に到達したのはコロンブスでなく、その500年前のバイキングだと言われてますね。もっとも、11世紀では大西洋を横断する技術はなく、アイルランドからアイスランド、グリーンランドを経てカナダのニューファンドランドまで行ったらしいと思われるのですが、中国の夏王朝と同じで具体的証拠がなく伝承のみ。北米でインディアンらしき人種にあったことも書かれている。実はカナダ東岸で10世紀のデンマークの硬貨が発見されてるのですが、後世の人が置いただけかもしれず証拠にはなっていません。
アトランティス大陸も伝承のみの世界ですね。
スレ主さん、最初のアメリカ人は縄文人だと言う説もありますよ。
以前からネイティブアメリカンのDNAと1番近いのが、縄文人の特徴を強く残している日本のアイヌの人達だと言われていましたが、アメリカの遺跡から、縄文土器に良く似た模様のついた土器の破片が発掘されるのだそうです。
航行技術に長けた縄文人がサハリンなどの島づたいにベーリング海峡からアメリカ西海岸に到達していたのではないかと言われています。
インカ帝国などの古代文明を築いたのも縄文人ではないかという説さえあります。
麒麟がくるの感想から大きく外れてしまいごめんなさい。
トクヨさん、コメントありがとうございます。
いやいや、北欧史の好きな私がバイキングの話を持ち出した私からのつながりだからいいんですよ。空海ら遣唐使らが渡海し中国に行ったけれど、大航海時代前の技術では大変だったろうな、と言う意味で書いたんです。
バイキング云々はもちろん白人ではと言う意味で人類で最初に北米に行ったのはネイティブアメリカンでしょう。おっしゃるように、シベリア方面からアリューシャン列島沿いに渡ったと聞いたことがあります(高校の英語の教科書にあった)。
ただ、縄文人と言うのは新発見です。アイヌ民族や蝦夷と言われた人達とはまた違うのでしょうか。アイヌは蝦夷ではないと言う本を立ち読みしたことがありますが。アステカ・マヤ帝国やインカ帝国が縄文人なら凄いですね。彼らは古墳文化まで進化していました。北海道に残ったアイヌの人々は新石器時代のままが殆ど。どうだったんでしょうね。
話が難しいけど、ものすごく勉強になりますね。
本能寺、鉄砲、火薬のルートから、水軍、佐伯氏と空海から、バイキング、縄文人のルーツ、
うーむ。すごい。
べえべえさん、コメントありがとうございます。
43さんと芳根京子さん、百田夏菜さんにトクヨさんも加わったお話は院生のレベルで私はさっぱり分からず、お礼のコメントを書くこともできなかったほどです。ただ、遣唐使が中国に行くのが大航海時代以前は、白人が大西洋を横断できなかったようにどれほど大変だったかなあと思い、中世欧州も好きなのでバイキングの話を書いたのです。でも、白人中心思考だったのがトクヨさんのお話で気づかされ恥じ入ってる次第です。
私も「西郷どん」ではべえべえさんから多くを教わりましたよ。
このスレが自己満足の知識のひけらかし合戦でなく、多くの人の歴史ロマンの探求心をかき立てる場であって欲しいと思い、皆さんには感謝の一言に尽きます。本当にありがとうございます。
べえべえさんも忌憚ないご意見を心からお待ちしています。
スレ主さん、ありがとうございます。
縄文人とネイティブアメリカンが近いというのは、私も何かの本で読んだことがあります。
日本人と各アジアの国々の人のDNAを比較して、現在の日本人は、どのグループからも少し離れているみたいですね。色んな人種の混血で、かつ島国で独自性を保持してきたから、かもしれないですね。
これから、外国人をかなり受け入れていこうとしています。これに対し、日本人のよさが、純血性が、という危惧も言われますが、もともと混血でできて来たのが日本人なんだったら、これからも変化し進化していくのも、自然の流れかもしれないと思います。
スレ主さん、べえべえさん、毎回丁寧なコメント嬉しいです。
スレ主さん、バイキングが北米にコロンブスより先に到達していたというのは私ももちろん知っていました、「世界ふしぎ発見」でやってました、あれ民放だけどかなり取材など優秀で、時々見ますが為になります、長寿番組なのは伊達じゃあないです、NHKも一目置いてますね、
最近はチコちゃんがやたらもてはやされてますが、チコちゃんのネタはすでにふしぎ発見で取り上げられていた物があると感じます。
余談はさておき、私が言いたいのは
アメリカに最初に渡ったモンゴロイドは縄文人、最初に渡った白人はバイキングの人達だと考えると何だか愉快です、大航海時代のコロンブスだと思い込んでいるアメリカ人にどや顔出来そうで。
べえべえさん、コメントありがとうございます。
おっしゃる通りですね。
それに日本人は外国文化を自国流に咀嚼するのが得意です。
検非違使、関白、征夷大将軍なんか中国の律令制度になかった日本固有の制度です。明治期に洋風料理が入ってきても、すき焼き、肉じゃが、アンパン、大正期にはライスカレーを流行らせ(インドや欧米の料理と違う)、戦後は焼き餃子にラーメン(中国の料理とは全く違う)。
外来語や和製英語も数多く。国字も作りました。
べえべえさんのおっしゃるような世の中になればいいですね。
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