スレ主さん、他投稿者の皆様、おはようございます。100の件、自分もスカーレットファンスレの投稿者の皆様から色々な事を勉強させて頂いております。感謝の気持ちしかありません。また、このスレを見てから「麒麟がくる」を観ると10倍楽しめる様な気がします。また、自分はいだてんファンスレには殆ど投稿をしなかったので2000件の内貢献したのは5~10件位だと思いますが感謝の言葉を頂き、誠に恐縮です。98でも投稿させて頂いた様に戦国武将や戦国時代には詳しくないので投稿機会はあまり無いかもしれませんが投稿させて頂いた際はよろしくお願いいたします。
スレ主さんおはようございます。
いだてんスレ、ドラマの終了とともに2000件達成で、年明け早々おめでたく大団円を迎えましたね。
いつも楽しく投稿させていただいて、こちらこそ本当にありがとうございました。
こちらの麒麟スレにも、お邪魔でしょうが、参加させていただきたくどうかよろしくお願いします。
やうぼさん、戦国時代の歴史、私も弱いので、「麒麟がくる」を見たら、感想など書かせて貰おう、と思ってます、やうぼさんも時々はコメントしてくださると嬉しいです😊
トクヨさん、おはようございます。102の件、自分にも分かりそうな話題がありましたら投稿させて頂きたいと思います。邪魔になるかもしれませんがよろしくお願いいたします。
やうぼさん、トクヨさん、コメントありがとうございます。
早く19日の放送が来ないか、心待ちにしています。
向井理さんの足利義輝。知的だが力足らずに松永弾正の前に散った悲劇の青年にぴったりです。実際はどう描かれるか楽しみです。
風間俊介さんの徳川家康はひ弱そう。
白い鳩さん、こんにちは。
私は大河は観ないのですが、でもこちらの皆さんの投稿は とても勉強にもなり、楽しく読ませてもらってます。
大河、歴史的なものに あまり興味も抱けなく、なのに こちらに投稿にきて すみません。
こちらの新聞の投書にも、麒麟がくる を楽しみにしている方々の投稿があり、私も三日天下くらいしか知らなかった光秀、の事を書かれていました。それによると、光秀は加賀の代官だったとか、金沢の武家屋敷跡 野村家では光秀の書状が展示されているとか、こちらの温泉で湯治をしていたとか、前田利家の七女が 光秀の孫の正室であったとか、本当に色んな事を私も知ることができました。身近に感じた光秀です😉
それらは、北國文華という雑誌だろうと思うのですが、特集として組まれています。
石川にも何気に関わりがあった光秀に ほんの少~しですが興味が出てきた私です😆
特集の中で先生方が、本能寺の変に至るまでの信長と光秀の天下統一への夢の共有と実現の思いの違いを詳しく書いてあるそうです。
手に入れられたらいいな と思うようにもなりました。
ドラマにも、少~し興味出たらいいなぁ、です😆
123さん、情報ありがとうございます。
最近は、信長用語も変わってきて、下記のようになってます。
①信長の目標は 天下布武→天下静謐
②天下統一の天下とは 全国でなく→京都周辺地域(畿内)
高校頃勉強した日本史は、もはや役に立たなくなりましたね😨
芳根さん、こんにちは。
私が一年間 休まず大河を観たのは、タッキーの主演の義経です😆
後にも先にも完走したのはこれと、高橋秀樹さんと松坂慶子さんのドラマ。この時の光秀は誰が演じたかは覚えていません😅
義経で、安宅の関や 能登の珠洲市の義経繋がりの何かが出ないかな?と一生懸命観てました。
光秀は早死にですよね?誰かの生き死にで歴史も変わる。なんか壮大ですね😉
123さん、お返事ありがとうございます。
石川県の近くだと…
手取川の戦いが1577年にありますよ。
加賀国の手取川において上杉謙信軍が織田信長軍を撃破した合戦です。
織田軍は5万も兵がいて、1万2千の上杉軍に完敗します。
でも、今回の大河で、これやるかな?
芳根さん、
そうなんですか!
手を取り合って渡った暴れ川の手取川。
そんなことがあったんですね。
興味が 少し増えました😆
123さん、芳根京子さん、コメントありがとうございます。
手取川の合戦、「上杉に逢うては織田も名取川、はねる謙信、逃ぐるとぶ長」と狂歌に歌われましたね(井上鋭夫金沢大教授「日本歴史全集・信長と秀吉」)。これ、林屋辰三郎立命館大教授はあまり詳しくは書いてない(中公文庫「日本の歴史・天下一統」)。上杉謙信が死ぬ直前ですね。後者は社会経済史にも結構触れてるスペース上の問題かな。上杉家はこの直後相続の内乱があり疲弊しますね(御館の乱)。
一方で、123さんの教えて下さった新聞情報は全て初耳。芳根さんの教えて下さった現在の歴史の用語も全くの初耳。いやいや織豊時代は深いです。どこを端折ってどこを丁寧に描写するか脚本家の力量が問われますね。池端俊作さんの「太平記」は吉川英治の原作がありましたが今度は全くのオリジナル。楽しみです。
>高橋秀樹さんと松坂慶子さんのドラマ。この時の光秀は誰が演じたかは覚えていません😅
これは「国盗り物語」ですね。光秀は近藤正臣です。無能な伊丹十三の足利義昭をよく支えてましたね。今度は滝藤賢一さんが演じるんですか。「国盗り物語」も聡明な竹脇無我の義輝と比べられましたが今度も向井理さんの義輝と比べられそうな感じもします。
興味は尽きません。
上杉謙信の戦歴は生涯で70勝2敗です。
並みいる戦国武将の中でも飛びぬけて高い勝率です。
でも、この2敗は誰と戦って負けたのでしょうか?
①1561年の北条氏康との戦いである『生野山の戦い』
②1566年の原胤貞との戦いである『臼井城の戦い』です。
これだけ、戦に勝っているにも関わらず、彼は、領土をあまり増やすことができていません。理由は、領土欲があまりなかったことと、手伝い戦が多かったということです。
なお、武田信玄との有名な川中島の戦いは引き分けとして、カウントしているみたいです。
こんばんは、白い鳩さん。
光秀役を教えてくださりありがとうございます😃
ひとつ思い出したことがあります。
私の母親の出身地の近くに織田町と田舎町が有るのですが、子供時分に その町を歩いたときに、織田信長の出生地と書いてあるのを見たような覚えがあります。
見たときに、「へぇ」と思ったことを思い出しました。出生地と出身地は違うのかな?😁
あ!すみません!
織田町という田舎町です。抜けてすみません😵
123さん、織田信長の出生地は諸説あるみたいです。
最近では、愛知県愛西市と稲沢市にまたがる形で存在した勝幡(しょばた)城だったという説が有力です。
百田さん、ありがとうございます😃
そうなんですね。あちこちの諸説が。
本家と元祖みたいに、ここが!とはならないといいですね。😆
123さん、コメントありがとうございます。
このレベルは学者の著書よりネット検索した方が分かると思い検索したらありました。
福井県の越前地方に丹生郡旧織田町がありましたが、織田信長の祖先の発祥の地とされているそうです。織田氏の祖先はここにある越前二の宮・劔神社の神主で応永年間(1394~1427)の常昌の代に越前守護の斯波氏に能力を見出され尾張に守護代として派遣されたそうです。劔神社には「戦国武将織田一族発祥の地」と言う石碑があります。梵鐘は国宝で本殿は福井県指定文化財だそうです。近接して織田文化歴史館があり、織田信長や越前朝倉氏に関する古文書の国宝が陳列されているようです。織田信長はこの神社を氏神様と崇めていたそうです。廃線になった福井鉄道鯖浦線・旧織田駅付近の織田バスターミナル近くには織田信長像の銅像があるようです。
織田信長自身は尾張で生まれてますので旧織田町出身とは言わないみたいですね。
123さん、わかったぁ~
言いたかった場所はここですね‼
越前町の織田を訪ねると「ようこそ、織田信長一族発祥の地」と書いてある看板がお出迎えをしてくれます。
織田信長の「先祖」はこの地にある『劔神社』に代々奉仕する神官であったとされています。
お母さんの出身地は、織田信長先祖の場所です。👩
芳根さん
ヒストリア見られたのですね。私も既成概念を取り払ってみないといけないと思います。
信長も光秀もそうですが、松永弾正や三好氏とかも今までの悪人ぽいイメージとは違うらしい、と、これもヒストリアの受け売りですが、最近知りました。
そういう発見も取り入れた大河にしてくれるとどうなるのか、かえって普通人同士の確執になってリアリティーが出てきて、それを面白いと感じるか、つまらないと感じるか、分かれるかもしれないという気もします。
百田夏菜さん、芳根京子さん、べえべえさん、おはようございます。コメントありがとうございます。
百田さんと芳根さんの知らべられた結果と私の知らべた結果が一致しましたね。下剋上とは言え、織田家も守護代につながる名家だから分かったのかな。秀吉の先祖は分かりませんよね。
べえべえさんは同じ池端俊作脚本の「太平記」はご覧になったかもしれませんが、忠臣楠公の楠木正成を戦さより話し合いを大事にし、足利尊氏と平和共存を図る少しひょうきんで穏やかな今風の民主的な平和主義者に描いた人(金八先生か)で、戦前教育を受けた昭和一ケタの亡き父が「忠臣でも何でもありゃせんが。戦うのを止めえ、と味方に言って回ってる」と笑ってました。皇居前広場の後醍醐天皇をお迎えに上がる楠木正成像からは違和感があったようです。「いだてん」のような近現代史でなければ創作はありと思います。
現に「おんな太閤記」の石田三成は完全な悪役。「黄金の日々」「天地人」「真田丸」の正義感強い誠実な人物とは正反対。
「西郷どん」でも「翔ぶがごとく」の司馬遼太郎の世界を史実とする明治政府手放し礼賛の右翼的な人達と激論になりました。大久保利通ら薩長藩閥政治家を司馬さんが美化し物語として楽しむのは大賛成ですが史実だと盲信し、山田太一「獅子の時代」、市川森一「アイウエオ」「新坊っちゃん」のような明治政府に批判的描写を偏向だと頭から否定してくる。
「いだてん」でもクドカンさんが史実に忠実と絶賛する人達には困惑しました。私はファンスレスレ主ですがドラマとして面白い楽しい素晴らしいと言う立場で、ちょっと違いましたね。史実を創作のように入れてくる手法は巧みで上手いさすがだと思いました。
白い鳩さん、芳根さん、
おはようございます😃
織田町、色々教えてくださりありがとうございました。
私もWiki見てきました。
発祥の地だったのですね。
小さな村や町は合併で、ひとくくりになり すこし残念な気がします。
朝倉遺跡?も何年も前に行っただけですが、劔神社とあわせてまたいつか訪ねたいと思います。😊
松永弾正のあの有名な肖像画はどう見ても『悪者』ですよねぇ~
べえべえさん、ヒストリアはじめ週に5くらい歴史番組見てますよぉ👋
芳根京子さん、コメントありがとうございます。
松永弾正の肖像画、後世の絵師は時の権力者に迎合しますので、何とも申し上げようがないですね。「国盗り物語」ではエキストラ扱いだったのを吉田鋼太郎さんの配役にしてあるので、ひょっとしたら味のある人物になってるかも。
でも、向井理さんの足利義輝を屋敷に襲い殺害するから、どのように描写するかですね。「功名が辻」では長曾我部の遺臣を相撲大会と偽って海辺に集め鉄砲隊で集団虐殺したのを山内一豊(上川隆也)ではなく、ヒロイン仲間由紀恵の幼馴染の架空人物の香川照之(悪役もできる風貌です)が勝手にやったことに史実を変えてましたけれどね。
松永弾正とは・・
常人にはできぬ三悪(①将軍の暗殺、②主家を滅ぼす、③東大寺の焼き打ち)を成した老人」と、信長が家康に紹介した戦国時代の悪のカリスマと言われていますが・・最近はこれにもメスが入っています。
紹介できる時間があれば、また書きます。
本能寺直前
明智光秀が愛宕神社で3回引いたおみくじ全て『大凶』だったとか・・
織田政権下で何度も謀反は起きていた‼
上記の松永弾正は2度も謀反起こしているし、浅井長政も朝倉責めの時、突然謀反、荒木村重も謀反、足利義昭は将軍だから謀反とは言いませんが、何度も織田包囲網作戦を立案・・
別に明智光秀だけじゃないんですよね。織田政権下で信長を殺そうとしたのは・・謀反がたまたま成功しただけ…とも言えます。
百田夏菜さん、芳根京子さん、コメントありがとうございます。
123について。私の蔵書は皆古いのです。新しいものでも平成初期に書かれたもの。最新学説の紹介お願いします。
124について。ドラマティックで日本人は江戸時代から歌舞伎等の世界でこういう展開を楽しんできました。どこまで史実かは分かりませんが。「スカーレット」の信作の5回連続凶と言うのは私個人は伏線でもないなら止めて欲しかった。
125について。謀反は関ケ原まで続きます。石川数正だって小牧長久手戦後に家康を裏切ってるし、小早川秀秋は北政所の甥で、養家の毛利家を裏切っています。少なくとも毛利秀包、毛利元康、安国寺恵瓊らは西軍として戦ってるのですから。主力の毛利秀元は傍観しましたが。
松永弾正について、もう一つ大事なことを思い出しました。
茶器のコレクターとして有名だった松永久秀ですが、信長に反逆して敗れ、名器「古天明平蜘蛛」(こてんみょうひらぐも)を差し出せばゆるす、と言われ、それを拒み茶釜に火薬をつめ、それに火をつけて爆死したといわれています。
この「古天明平蜘蛛」は、当時一国の領土に等しいと言われるほどの名器でした。
百田夏菜さん、コメントありがとうございます。
大河にはなっておらず、民放ドラマでも端折られてましたが、司馬遼太郎原作「関ケ原」で似た場面があります。戦国専門分野の百田さんなら百も承知かもしれませんが。
織田信長の嫡孫の岐阜城主織田秀信中納言。本能寺の変で亡くなった織田信忠の忘れ形見。西軍につけば石田三成を嫌う東軍の旧織田家家臣にも動揺があると踏んだ三成は西軍従軍説得に出かけます。
織田秀信は芸術愛好が祖父譲り。武芸より芸術を愛し茶道にも通じていた。三成に会うと「狂言袴」と言う高麗の由緒ある茶器で茶会をしたいと言った。「くれてやれ」と三成は茶器を贈ります。
世間に通じた重臣は東軍に付くように説得しますが伊達好みの秀信は西軍に付き破れて高野山に追放されそこも下山し若くして亡くなるのです。弟の秀則は許され大阪夏の陣の後は出家し京に住みました。
浅井長政の読み方ですが、昔は「あさいながまさ」だったみたいですね😃今は「あざいながまさ」です。でも、この読み方、不自然ですよね❗
織田信長は浅井長政が裏切った時、
あざいが『うざい』と言ったとか❔…
井頭愛美さん、おはようございます。コメントありがとうございます。
読みについては初耳です。確かに発音しにくい。
後半は川柳スレのダジャレ川柳に応募してみてはどうですか(笑)。
スレ主さん、お返事ありがとうございました。
今は、学校でも浅井『あざい』と教えていますが、そういえば、先生が発音しにくいと言ってました。
2011年の大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」でも浅井氏を「あざい」と読んでいます。
その理由は概ね二つあるようです。
滋賀県にある地名浅井郡の読みが「あざい」であること
「節用集」にという室町時代に成立した国語辞典に「あざい」と記載されていること
浅井郡という地名は以前は存在していたのですが、平成22年に長浜市に合併したことで郡としては消えてしまったようです。浅井町もあったそうですが、郡も町も読みは「あざい」だったとようです。
井頭愛美さん、コメントありがとうございます。
全然、知りませんでした。高校の教科書買い直そうかな。
これからも、最新、史実を教えて下さいね。
手元の学者の本が全部、昭和戦後のものなんですよ。司馬遼太郎にしても著作物の大半は昭和戦後作品(亡くなったのが平成8年)。
江北は雪深い地方です。近畿ですが北陸が半分入ってますね。
読み方とは違うんですが…
源頼朝、足利尊氏、武田信玄、聖徳太子この4人の肖像画
教科書に載っていたおなじみ肖像画ですが、昨今は、それが別の人と言われていますね。
百田夏菜さん、コメントありがとうございます。
私の蔵書の学者本はどれも昭和のもので役立たずです。
私が知ってる範囲では足利尊氏像とされたものは家臣の高師直像の間違いだそうですね。
他はお恥ずかしいですが、分かりませんので、ご教示下されば嬉しく思います。
源頼朝像は
美術史家の米倉迪夫氏によると・・
「源頼朝像は頼朝を描いたものではなく室町幕府をつくった足利尊氏の弟・直義を描いたものである」という衝撃的な説を出しています。
芳根京子さん、コメントありがとうございます。
やはり、最新の学問に触れた若い人の意見はとても勉強になりますね。
武田信玄像は、調べたけど…ハッキリしませんでした。
一説によれば、描いた長谷川等伯の出身地が能登であることから、能登の戦国大名「畠山義続」を 描いたとするものがありました。
身に帯びた刀装具に二つ引両の家紋が見られ、 畠山氏の画像とした方が妥当ですかね?
武田家の家紋は「四割菱」。それに、対して肖像画の刀は「二引両」の家紋で、足利氏・畠山氏の家紋ですね。
芳根京子さん、コメントありがとうございます。
芳根さんって歴女だったんですね。
司馬遼太郎「関ケ原」によると明治時代になり欧米の近代手法を用いて石田三成の頭骨の鑑定をし女性の頭蓋骨のような形であった、と書いてますね。
聖徳太子肖像画も調べました。
この肖像画は昔から聖徳太子として描かれたものかどうか?、はっきりしてなかったそうです。
天武天皇像ではないかという説があるそうです。
この肖像画を見た平安時代末の学者・大江親通が「御影は唐人の筆跡なり。不可思議なり」と述べているとのこと。
あの肖像画は、誰なんでしょうか?
私と夏菜さんは、大学で日本史勉強してました。
だから2人とも歴史は大好き!
彼女は華やかで、私は暗~い学生でした。
芳根京子さん、コメントありがとうございます。
聖徳太子はいたかいなかったか論争になってますものね。
でも、中国の明朝の太祖(朱元璋)も気品ある顔立ちのものと醜悪な顔立ちのものがありますからね。
写真が出回る幕末までは本当に謎が多いです。
西欧もナポレオン3世の初期の頃の肖像画の女性像ですが美人過ぎます。モルニー公爵夫人とかウージェニー皇后とか。
芳根さんも百田夏菜さんもその道のセミプロですね。芳根さんが暗いなんてとんでもない。明るく輝く太陽のような人です。なお、私は大学で学んだ専門課程での法律知識は殆ど忘れました。法学とか刑事法総論とか入学して間もない頃の知識は不思議と残っていますけれど。
聖徳太子はお札にも何回もなっているし・・
今頃、別の人だって言われても・・
困りますよね!
百田夏菜さん、コメントありがとうございます。
戦前の神功皇后のお札なんか笑っちゃいます。
まず、架空の人物。モデルは斉明天皇(皇極天皇)とも言われてますが、日本に伝わる肖像画を使わず、イタリア人に書かせたので、どう見てもフランス王妃あたりにしか見えません。鹿鳴館政策がこんなところにまで来ていたのでしょうか。
スレ主さん
119の件、 太平記の楠木正成が平和志向の人に描かれているから「忠臣らしくない」という発想は、確かに戦後世代の私には気づき難いです。
今の天皇は平和を願われていますから、正成が平和主義でも天皇の忠臣として、あまり違和感がなかったです。(笑
石田光成も今までいろいろな描かれ方をしてきましたね。
明治政府についても、私も西郷どんで色々書きましたが、司馬遼太郎の史観は、「坂の上の雲」のように、明治の興隆を”西洋型近代化の成功”ととらえ、敗戦後の復興期を”明治の成功物語の延長線”上に位置づけている、と一般には捉えられているかもしれないですね。
しかしその「坂の上の雲」も司馬氏は、生前、映像化を許可していないとのことで、司馬氏自身がそのような位置づけで留めていてはいけない、と考えていたからだとする評論もあるようです。
司馬氏自身も、自分の描いた物語と史実は別との認識で、考え方も進化しているのでしょう。
司馬氏の書いたものは、当時の戦後復興期の日本にとって心地よかったのでしょうけど、あくまで「物語」として見ないといけないのは確かですね。
(よく理解はしてないのですが、例えば坂の上の雲でも、乃木希典のように、明らかに創作で少し不当な扱いで書かれている人もいて、暗に”精神論を是として押し通す人たち”を批判するためでしょうか? まちがっていたらすみません。)
芳根さん
歴史番組5つはすごいですね。私はヒストリアと,たまに「知恵泉」くらいです。
松永弾正は、ヒストリアでは、実はまじめな忠義者で主殺しもしてない、とのことでしたが、吉田鋼太郎さんですか~!
いままで通り完全な悪役ではないですか。
う~~、善人にしてほしい。信長も将軍に実直な働き者で、将軍に振り回されて窮地に陥る役にしてほしい!(笑
べえべえさん
松永弾正は、最近の学説では、
逸話は後世の創作や誇張で、実際には忠義の人だったことが明らかになってきていますよね。
織田信長は、
太田 牛一『信長公記』の一流資料があるので、ある程度、実像が分かると思うのですが…
大河ドラマに関しては、あまりイメージ変えると、事実であっても年配の人から苦情が出そう…
本スレみたら…
北条義時を北条時宗と、勘違いしてました。
何とも・・
あちらは見てもダメですね❗🐧
べえべえさん、芳根京子さん、おはようございます。コメントありがとうございます。
乃木希典将軍は芥川龍之介は「将軍」で批判的に論じてますが乃木神社が創られ「坂の上の雲」が書かれた時はだ神格化する人も相当多く、今では保守(ハト派的だが)とされる司馬遼太郎さんや阿川弘之さんすらワイドショーで攻撃の対象にされてましたね。阿川さんは「山本五十六」で海軍主計将校だった自分の思いで軍神化を批判する言葉を山本元帥に言わせたのが槍玉にあげられました。
で、司馬さんは「坂の上の雲」のあとがきで述べています。「海軍の方は諸権威の教えを随分乞うた。陸軍については(中略)時を経ると脆弱な部分に気付き始めた。(中略)これは改定せねばならないと思った。が、全集のその巻が既に進行していたため大幅にはできず改定は今後の宿題にするとして(後略)。
司馬さんにはこういう話もあります(司馬史観と称するものの信奉者には意外でしょうが)。戦争末期、死を目前にした司馬さんは帝国陸軍上層部や政治家連中のための戦死は嫌だと考えていた。その時、目の前を幼い子供達が無邪気に遊んでる光景が目に入った。ああ、そうだ。俺はこの子達のためになら死ねる。そう思った。
私はこれは随筆で読み女流作家が司馬さんらしいと言ってました。
死後かなり経ち、乃木将軍などで足りない部分もあったと思いますが、人物的魅力に富んだ人だったと言う感じです。
松永弾正、「国盗り物語」での描写はあんまりです。八名信夫や丹古場鬼馬二と言った悪役俳優の配役ならまだしも台詞もないエキストラにやらせたのですから。吉田鋼太郎さんには今回期待しています。
井頭愛美さん、おはようございます。コメントありがとうございます。
「いだてん」は私ともう一人への袋叩きはあったものの、まだましでしたが「直虎」「西郷どん」は感想に絡んでくる人が多くて反論しようとすると規約のコピペ「多様な意見を尊重しましょう」を貼り黙らせようとする。それなら、自分も絡まずスルーすればいいじゃありませんか。
本スレは朝ドラスレに準じた内容の場所と割り切っています。こちらで大いに語り合いましょう。三姉妹の皆さんの他にべえべえさん、123さん、やうぼさん、トクヨさん、と素晴らしい面々で嬉しい限りです。もちろん、他の方も大いにウェルカムです♪
スレ主さん、お返事ありがとうございます。
本スレでは、それと、なまじ知識をあるばかりに、それに固執する人が嫌ですよね!
姉達みたいに柔軟に反論してもらいたいものです。🐧
井頭愛美さん、コメントありがとうございます。
その通りですね。で、絡んでくる。「直虎」の時からです。
井頭さんら三姉妹はこのサイトの良心です。このスレを盛り上げていきましょうね。
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