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山下君は憂いだとか儚さとかそういう雰囲気を出すのは上手だと思うんだけど感情が上下したり変化したりするような切り替えの演技は苦手なのかな?と感じたよ。
前半の彼の演技は上手いなと感じたけど知能があがって喋り方が通常になってからの落差をすごく感じた。
粗は確かに激しくあるよね。
何度も指摘されている喋り方なんかも聞き取りにくいとかなんとかよりも感情の乗ってない平坦なトーンの方がよっぽど気になった。
私は彼の出演ドラマはほぼ初めて見たのだけれども今まで世間で言われていた棒だという表現はここから来ているのだなと納得してしまった。
どちらかというと静かでデリケートな表情や表現が得意っぽい…のかな?
耳で聞く限りは確かに棒、かも…。
幅は狭そう…。
なんかそんな風に感じた。
山下君自身はわりと好感を持っているので頑張ってほしいとは思っているけど、ね…。
アルジャーノンのホームページでの監督のインタビューによると、最後は決まってたとの事です。最後が決まってたのなら、小ネタは変えられるでしょうが、あまり大きくは話を変えられないのではと思います。
売り出し中の若手を同僚に出した時点で、群像劇的な要素を入れることは決まってたんじゃないかと思いました。でも、それはそれで良いお話になったと私は思います。
前半の咲ちゃんは感情をもろに出して可愛かったですが、後半の咲人は、天才すぎて普通の人みたいに感情をストレートに出せない設定なんだと思いました。普通の人だったら、ダメ元であがくのにそれがなくて、自分の事でも合理的に考える様になったのでは、と感じました。
蜂須賀が見てみたかった天才に近かったのかな。
このドラマの後だったと思うけど心理学者の役をやってたけどクールな役だったけどそんなに平坦で聞き辛い感じでもなかったからこのドラマの演出でそうなったのかと思ったけど
天才でも感情は動くと思うよ。
もちろん絶望的な状況であってもつい理性的に物事を捉えるという傾向はあるだろうと思うけどもそれこそ頭と心はまた別だと思うから。
理解できるけども心がついていかない、とか押し殺せない恐怖感といった心情を表現してほしかったかな。
ちなみに私は他のドラマ(なんだったか忘れたけど)やCMで山ピーの心の入ってない平坦なしゃべり方を感じたことはある。
目をつぶって聞いているとそれはよくわかる。
ともあれ演出や脚本の問題で山ピーの深い演技が見れなかったというところはあるよね。
原作では天才になったからこそ世の中のいろいろなものが見えてしまいそれまで知らなかった不条理に根が純粋故に憤るのだけどね。その感情の揺れ動きはまさに天才になったがゆえのもの。今まで見えていなかった物の不合理さに腹をたてるというのは幼児から大人に成長するときに必ず通る思春期特有の正義感と繊細さのようなものだから。主人公が今まで汚れのない世界の中にいたからこそ感じる絶望感。それが見所のひとつでもある。
そこを丸々飛ばしてなぜか達観する主人公=それが天才という解釈がもし脚本家にあったとしたらちょっと残念。
障害者であった主人公が世の中の不合理や理不尽に憤り、でもそれを知れたのは人間のエゴの象徴でもある科学の力によってだという矛盾に苦しむという原作の大事なメッセージのひとつをなぜ棄ててしまったのだろう?
別に見た目にはクールに見えるという演出でも構わないけどあまりに主人公が葛藤する場面が無さすぎてとても違和感だった。
一人で苦しむ姿や激情を堪える姿などもう少しそういうシーンが入っていれば違ったかもしれないなあ…。
知能や運動神経機能は手術と薬で上昇した。
でも、社会的経験をともなう感情面は科学では成長しない。今まで知らなかったことをどんどん知っていく、見えてくる。憤りがあるはずなんだけど葛藤が少しも感じられなかった。葛藤したのは恋愛だけね。蜂須賀教授に教育というか刺激されたから。悪く言ってしまえば、他は『心に蓋をした』のセリフ通りに演技にも蓋をした。
恋人同士には見えなかったなあ。
遥香の言葉を咲人が同じ言葉を言うあたり。
学会の時の蜂須賀教授の『僕には私がいる』のオウム返しを強制させられたシーンと重なって異様としか思えなかった。
わからないのが『僕を愛しているのを誤魔化している』というセリフかな?心理学も収得したんでしょうけど。実際上?わかるものなの?って。
上の人も書いてたけどえっと驚くぐらい大事な部分を丸まま吹っ飛ばしたよね
吹っ飛ばして他の役者で表現を補なうつもりがそれも浅くて心底がっかりした脚本だった
原作は置いといて、この咲人君は天才から知延者に戻ることから逃れられないとがわかってしまい、健気に受け止め天才の証に理央ちゃんを助けられるのならそちらに賭ける。私は解らないけど、私の回りで早くして亡くなった方は不思議ともがいて葛藤していたような方はいない。今の医療の中でも助からないならと、受け入れ子供や親と穏やかに過ごすことを選んでいた。回りにこれ以上の心配を掛けることを嫌がり、自分が亡くなる後のことまで心配していたくらいだったから、あぁ咲人君も同じように愛する遥香には心配掛けたくないんだ。でも柳川君がトラックの中で昔のように社長に謝りに行ってあげると言ったことが、咲人のありのままを受け入れてくれる存在を柳川君にみて、瞳を潤ませていて仲間に委ねることができる安心感に変わったのかもしれない。
きれいごとのようですが、現実は穏やかな終わり方(命)を臨むことが今はあり、それはそれで間違いでないと思いますよ。野島さんが書いた脚本はアルジャーノンをもとに現代社会の暖かい部分を描くことで道標としたかったのかも。個人的な感想です。
死を迎える人が残される人間のことを慮り自らの行く末を受け入れて穏やかに過ごすというのはたぶん家族や信頼できる人間がいる状況ならほとんどの人がそういうところに落ち着きますね。
身内に10歳にも満たない子供や20歳過ぎたばかりの青年が病気で亡くなったりしましたが、最後は自分の人生を受け入れて逝ったようです。
…それでもね。
やっぱりこちらに見せないだけで死への恐怖や葛藤がないなんてことはあり得ないんですよ。
それを見せまいとしているだけです。
…私はたまたまそういう場面を知ってしまいましたが、逃げられない運命なら受け入れるしかないと必死に言い聞かせているだけなんですよね…。
そういう苦しい過程を経て最後の最後は達観できるのかもしれないけど、葛藤や苦悩なしに悟りはあり得ません。
だから咲ちゃんにもそういう当たり前の感情を見せてほしかったな。人前では冷静に振る舞えても人が見ていない場面では感情を殺す必要はないんだもの。
葛藤の末に達観するしかなかった…という演出ならよかったのかもしれないよね。
私も山下君のファンではないけど、野島さんのアルジャーノンは別世界としてはありです。
障害者や弱者に優しくありたいと改めて思えたもん。簡単なことでないし、現実を知らない辛口言えることかもしれないけど、自分の大切な人だっていつどうなるか分からないし、自分だってわからない。そんな中でもお年寄りに笑顔で接しようと、優しくありたいと思えるのは、このドラマの影響があるのよね。
人に優しく。
これは、アルジャーノンという物語のテーマではありません。
まったくオリジナルな話なので、アルジャーノンとは切り分けるべき。
こんなところに原作の名を止めてもらいたくはない。
まあ、知っているのはドラマを見た人のみで、世間一般に知られることも社会的現象になることもなかったので、その点はほっとしています。
原作に基づいた日本の「アルジャーノンに花束を」というドラマは、前作以外に存在しません。
まあ結局は野島さん好みの素材がアルジャーノンには最初からあり、知名度もあるから都合もよかったのだと思います。原作をどう捉えたのかはわからない。
肯定的に見ていたのか否定的だったのか。
ドラマを見る限り否定的だったのかなと思うけど。
受け止め方は其々ですよ。押し付けないでください。
野島さん的には否定的なところから入った、そんな作り方でしたよね。
原作を越えてやろう。という感じかな。
そして原作とは全く違う解釈で野島さん自身が原作に感じていたジレンマを解消し上書きし、さらに原作否定派とも言うべき同士を増やしたのだからある意味お見事だと思う。
…原作ファンの多くは落胆したけどね。
原作を映像化は絶対に全部が全部、その通りに忠実に描いてほしいとは思っていない。
受容できるか、出来ないかだけ。
これも感想です。
このドラマの主人公みてると、私は「幸福な王子」を思い出しちゃうんだよね。オスカー・ワイルドの短編なんだけど。実はアレが原作だよ、と言われる方が納得できる。宝石に彩られた美しい王子像が、博愛の精神で恵まれない人たちに自分のものをとことん分け与えてあげるという、自己犠牲の物語でしょ。最後は相棒のネズミならぬツバメと共に死んでいく。でも、その魂は天使に見守られて天国へ〜というね。
原作ファンは原作を忠実に映像化しなかったから怒ってるんじゃないと思う。
私は見ていないけど何年か前のドラマ化も設定やラストは原作と大きく違っていたらしいし。
問題はドラマを通して脚本家が何を伝えたかったかという中身の問題なんだと思う。
受容できるか以前の問題もあるしね。
原作云々抜きにしたストーリーとして見てどうかという論点もあるよ。
その忠実に再現しなかった理由のひとつが原作をリスペクトしてないところにあるんだと思うよ。
原作ファンからしたらだったらやるなと思われても仕方ない。
これも何度もここで繰り返されたことだけど。
このドラマって、結局、何が原作でも同じことだった。
やりたかったのは、とにかく野島劇場だったのだから。
上の方がおっしゃるように、「幸福の王子」が原作です、と言われても、全然違和感がない。
幸福の王子は最後に死んでしまうから、それではあまりに悲しいので、知的障害の青年ということにして、最後はまた知的障害の状態(元の世界)に戻してあげて、幸せに暮らしたという話にしてみました。若い人たちに、人に対する思いやりと愛の心を汲み取ってもらえたら嬉しいです……という談話を野島さんが発表したとしても、まったく変わりがない。
「アルジャーノンに花束を」という小説が、何のために知的障害や知能の向上退行という、現実には絶対にあり得ない設定を持ってきたのか。
そういう「無理」をしなければ、知能=科学が一個の人間にもたらす危険や負の側面をあぶり出して、警鐘を鳴らすことができなかったからだ。
そこまでの覚悟があって腹をくくって初めて、この小説は映像化ができる。
個人のセンチメンタルな思い入れや嗜好などで勝手に作り変えたりするような安易に扱える素材ではないのだ。
今さらだけれども、そうしたものに対する畏敬の念や謙譲の姿勢が見られないところが、リスペクトがない、と言われる所以だ。
私も以前、本スレに幸福の王子みたいと書いたことがあります。
同じ印象を抱いた人はたくさんいたんですね...。
ドラマの中で蜂須賀教授がまだ知能が退行していない咲人に向かって、「邪悪な心を制することが出来るのは様々な知識、高度な知性、理性だと思うが、、他にあるとすれば?」と聞くと、咲人は「・・・多分それは魂ではないか、、」と答えています。
蜂須賀教授は一笑にふして、そこで終わり。
野島さんはファンタジーに仕上げながらも、いろいろと心に種をまいています。
上っ面だけ見ても分からないことっていっぱい有るなと感じました。
野島イズムですね(笑)
オリジナルでやれば感動と教訓を盛り込んだ愛溢れるストーリーとしてそこそこの評価を得たのかも。
なんだかそれこそ上っ面という感じもしなくもないけど。
明日ママも「さあみんなで考えよう!」というテイストだったな、そういえば。
野島さんらしい色がここでも透けて見える。
評価できるとすれば咲人柳川檜山の三人のシーンは見ごたえがあったこと。
この辺はさすがだという感じがした。
野島×山下智久×有名原作
で、蓋を開けてみたら、破綻だらけのアイドルドラマだった。
深そうに見せて薄っぺらいストーリーに辟易。
山下君の演技以前、原作冒涜以前にストーリーが雑すぎ。
間違えてお茶の間に投下してしまったのでここに投下しなおします(汗
↓
遥香のぶれたキャラクターと梨央&檜山のセカチューさえなければ良かった。
柳川君は咲人にひどい言葉を投げてしまうが、咲人の手術を受ける動機を知ってからは、
知能の向上した咲人が花屋の人と衝突してしまった時、彼が他の従業員たちからリンチされたりしないかすごく心配して部屋の前で武装して待ってたり、
社長に対してしでかしてしまった咲人の暴言をフォローしたりと、
ほんとに「親友」として動いてくれた。
もう一人の友人要員である檜山君が途中でセカチューになってしまったのが本当に残念。
素敵なドラマでした。いつまでも忘れられません。
そう考えると主人公の苦悩と作品のテーマを排しときながら脇のエピソードの盛り方がとてもすごい。しかも最終回でうまく纏めるのかと思いきや主要三人以外の関係性を全部ぶったぎって放り投げてしまう杜撰さ。
表面的なストーリーの美しさで誤魔化された感が強かった。それで結局何が描きたかったの?となってしまったんだろうな。
何故いま、この作品なのかを考えると、ドラマの出来は残念でも、原作の表題のまま放映した意味も甲斐もあったと思う。
目の肥えたドラマファンには内容も演技も脚本も不満が出ても、原作を知らない世代に原作本を手に取る機会を与えたのは事実。
原作が書かれた時代以降も、この日本での障害者の扱いを身内を通して見てきた自分としては、原作をヒューマンドラマと持ち上げる人にも反吐が出る。
自分は原作ですら、SF、想像の話しだから許せたのに。
あれは障害者を人間扱いしていない現実世界に対する批判として、障害者だって人間なんですと訴える内容を作者が想像で書いたもので、実在する人間の話じゃありません。
現在、障害者を人間扱いしないなどという考えも、風潮も影を潜めました。昔よりも過ごしやす世の中になったとは思います。けれど、綺麗事、おとぎ話と評されるこのドラマの中にも、きちんと現実は表現されていました。
咲人が迷子になった時の「帰ろう」という梨央の友達の行動や、柳川が檜山に問う「お前は、サクみたいな女と付き合えるか?」、また究極の選択、知的障害者に戻った咲人を引き止められない遥香など。
そして自分の叔母のように、そういう障害のある子を産んでしまい、懺悔の念に苦しんだ人の姿と言葉を見聞きしているので、咲人の母親の描写も自分には有りの表現です。
原作が書かれた当時のような障害者に対する差別はなりを潜めました。代わりに無関心や関わらないが主流になりました。
社会政策も即隔離、施設収容から真反対の社会参加、共生へ変わりました。
このドラマはそのあたりもちゃんと描いていました。
自分は全くの駄作とは思いません。ただ、寝た子を起こすような過激なセリフやシーンは入れられないデリケートな作品だとおもうので、制約の多かった作品なのだろうなあとは思います。
いつまでもつづいてる感想にびっくり!
うれしいです。
なんだかんだ総合評価いいし!
障害者の存在に対する投げかけはあっても、それに対する受けは描かれてなかった。なにせ、主人公が苦悩する部分が少なすぎる。現実が見えて苦悩する主人公を描いてこそ伝わるはずなのに。
母親の苦悩は夫の問題にすり替えられた。
リオが「普通って何?」と問いかけながら、その受けもない。
薄っぺらい印象になったのは、そういうところだと思う。
どれだけ現代風な設定を盛っていても核心さえ外さなければ見ごたえのあるドラマになったのだろうと思う。
原作はやっぱり、人間を描いたちょっと重めなヒューマンストーリーだったと思うけど今回のドラマは現実の人間を描いたというよりどこか違う世界の住人のお話といった感じの生温さを感じた。
エグい描写や過激な表現をことさら入れなくても人間の苦悩は描けたはずだと思うんだよね...。
そこが一番見たかったからとても残念(T-T)
薄っぺらい見かけ倒しのドラマ。
このドラマの原作をSFという人がたまにいるけれど、
理屈上はSFでも、読んでいる感覚は痛いぐらいリアル。
そこが描けずして、SFだからというのは、言い訳にならない。
脚本の力不足が一番大きいと思う。
誰かが言ってたよね。SFの設定を<借りた>ヒューマンドラマだと。描いているのはあくまで等身大の「人間」だから。
今思い出しても色あせないで本当に良く出来たドラマだと思います。
けなされまくってしまったけれど、、いろいろな場面が脳裏にやきついている。大好きなドラマでした!
素晴らしいドラマでした。
泣けない。
アルジャーノンは、私たち自身の物語。
癒しの与え手でも救いの与え手でもない、かわいそうな涙する存在でもない。
チャーリーは、私たち自身。
知能とは、科学とは、あなたにとって何?
知能や科学に、あなたはどのように向き合うの?どうするの?
読み手に、ひいては人間全体に、永遠の問いかけを作者は行っている。
それを全くなかったことにしたこのドラマは、やはり「アルジャーノンに花束を」というタイトルを真に戴くことはできない。
原作の本質を読みとれなかったとしたら、制作者として相当やばいよね。分かってて無視したなら倫理観を疑う。どちらにしても制作スタッフのレベルが低いんじゃないの。
とっても良いドラマです。前半の咲ちゃんの可愛らしさ、後半の咲人の優しさに涙しました。最終回の手紙のシーンは何度見ても泣いてしまいます。出演者みんな良かったです。
録画は全部残ってる、でももう一度見る勇気がなくてそのまま。リアタイで十分過ぎるほど忘れたくないドラマになってる。ボロボロ泣きながら見たよ、そこまではいり込める自分も不思議だった。原作や演出に疑問を感じたこともない、それだけみんな役柄をこなしていたと思う。自分の中でドラマの続きがあるように、人それぞれに伝わった言葉の重みが今もあるんだね。ここがいつまでもありますように...
視聴率的にも無理だけど、再放送はしちゃいけないね、この作品は。
まずタイトルを変えること。
私も番宣で山ピーが「あるじあのん」と語るところからすでに咲ちゃんとして、天才咲人にそして咲人さんへの変化に引き込まれるようにドラマの世界に入り込んでしまいました。人として大切なことも教えてもらい、私は何故か何度も何度も見たくなり録画を再生してしまうな。私も演出とか演技に違和感なく見てきたので今でも見たくなるほんとに不思議なドラマです。もうすでに秋ドラマもクランクインしてるのに…
金10作品のなかでは、近年稀に見る駄作。
良いドラマだったな。自然と涙が溢れてとまらないこともいっぱいあった。録画観ると尚更。
ありがとうね、素敵なドラマ。
原作とは全く別物なのでもう「許せない!」って感情すら風化しました(笑)
ただ野島脚本はもう見れないかな。
小さなトラウマとしてそれは残った感じ。
このドラマの女性陣には同情すら禁じ得ません。
男性陣に比べたら捨て駒のような描写にとどまりました。
そこ、大事なとこだと思うんだけどなあ……。
なぜタイトルの意味のままにラスト「アルジャーノンに花束を」という言葉を使わなかったのか?
数々の改悪はあったけれど、それでも話の流れからラストにこの言葉を使うことはできた。
最終話まで見て、この作品はあえて原作に背を向けていると確信した。
本当に腹立たしい。
咲人もアルジャーノンを可愛がっていたけれど、研究所のめがねクンの方がアルジャーノンを唯一の友達として世話をしていた。一番可愛がっていた感じが伝わる。だから咲人がめがねクンに「アルジャーノンに花束を」あげてくださいと最後に託したら何か違和感がある。
だから人工的に作られた知能と青いバラとで対比させてラストとしたのかもね。
私はドラマが大好きだけれど。
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