懐かしい東京オリンピックの時代
あの頃を背景に朝ドラひよっこを語りませんか。
レトロで和やかな雰囲気を保ちたいです。
すみません、和やかとありますのでこちらはファンスレでしょうか?
最初にハッキリ決めておかれた方がよろしいかと思います。
良きも悪しも懐かしきひよっこ昭和背景を語ろうですね。
でも私にはあの頃の東京オリンピックの記憶が全くない。
あるのは大阪万博あたりからかな(^^)
ご意見ありがとうございます。
時代は大阪万博のあたりまですすむのでしょうか?
ドラマと高度経済成長期のあたりのことを語る「やすらぎのスレ」にしたいと思っています。中高年向けになります。ファンでなくてもおだやかに語ることはできるでしょう。
農村で育ちました。米と野菜中心の食事で肉や魚が毎日食卓に並ぶわけではありませんでした。谷田部家の食卓に肉が出てくる日はいつでしょう?
私は残念ながら見逃してしまいました。なのでどんな話か分かっていないのですが、どうだっんですか?
あ、すみませんあまり関係ないことを話してしまって。でもすこしだけ知りたいのですが。
本スレを読めば少しわかります。
ふくさん茨城の舞台は農村です。
ほのぼのとした田園風景は癒されました。でも農業はそんなにあまいものではありません。機械化が進んでいなかった時代の農作業は大変だったでしょう。経済成長期と農業は光と陰のようなものだったのかもしれないと、BSでやっているこころの新潟を思い出しながらふと考えたりします。
7です。8、9さんありがとうございます!
明日から見て見ます!
今日の放送で、70代の両親が元気になりました。
「お母さんお嫁に来て初めて電気釜使って、1日目失敗しちゃった」って話も聞けました。
私も、子どもの頃は庭のチャボの茶色い卵が楽しみだったなぁ。
お父さんが店先で手に取っていた「青いズック」も懐かしー!
若い広場に明るい農村
私の子供時代を思い出す産みたての卵
古谷一行さんはいつの間にかおじいちゃん役になっている
大学に古谷写真館の出張所があり、就活用の写真を古谷さんのお父さんに撮っていただいた遠い昭和の思い出
私ごとでごめんね。
昨日の家族に乾杯では沢村一樹さんが茨城に馴染もうとしてるところが良かった。
台所が土間じゃないのに、まず、違和感。
等ちゃんが出稼ぎに行くほど、貧しい農村、というイメージでもない。
茨城あたりで、地元の高校出たら、東京には就職しないんじゃないか?
などと、疑問も多いのですが、昭和と言っても、いろいろな生活があったわけでしょうね。
ニワトリを飼っていて、あの程度の人数の家族なら、むしろ、卵はそれほどの貴重品でもないような。
戦争中でも、農家で鶏を飼っていた農家の子は、お弁当に卵焼きが入っているのは、それほど珍しくもなかった、と、うちの母は言っていた。
時代考証がゆるくないかなあ、と、ちょっときになってます。
農家といってもいろいろです。土間がある家ない家あの時代でもいろいろでした。卵は貴重品というわけでもなく、子どもの時はお弁当のおかずに入っていました。高度経済成長期は日本が近代化して行った頃。
みね子の家にテレビがあったのにホッとしたけど、申し込み制の電話が懐かしかった。都会育ちの夫はあのやり方を知りませんでした。
申し訳ないが茨城の事をあまり知らないからこれから少しずつ見ていこうかなと。
この脚本家のかたはちゅらさんだよな~。懐かしいと思った。久々に一番反響の少なそうなこれがはまれそうかも。てっぱん以降まったく朝ドラに興味がなかったから…そんな人いないだろうな~。家族は1話で昔の朝ドラみたいで嫌だと…沢村一樹さんは好きらしいけど…。だってさ。またいつか~。
桑田さんの若い広場は昭和歌謡を意識してるね。
昨日の高校3年生が,ぼくら・・・で終わってしまったのが残念であった。
三波春夫さんの東京オリンピック音頭は、その年の盆踊りや運動会で踊った思い出があります。あの日ローマでという歌詞をあの広場でと勘違いしていた小学2年生でした。
♫四年たったらまたあいまーしょっと
でオリンピックは四年ごとに開催されるのを知ったのもあの唄でした。
田舎の人にとってハヤシライスは未知の食べ物だったんだろうなと感じました。
未知でしたね。カレーはライスカレーと言っていたあの頃、我が家のカレーにはクジラ肉が入っていました。上京して初めてピザやグラタンを食べました。べっぴんさんのピロシキなんて、なんのこっちゃの世界でした。
小学校の給食の一番人気メニューがクジラ肉の唐揚げでした。酪農家さんも多かったので、カレーには豚肉入っていたと思う。たぶん。ハヤシライスをいつ知ったのか覚えてません笑。バス2時間乗って、デパートに行って最上階のレストランでお子様ランチかナポリタン食べるのが楽しみでした。
昔はデパートの屋上が小さな遊園地みたいになってませんでした?
東京オリンピック当時は赤ちゃんだったので、東京の古い記憶は上野動物園のパンダかな?
自分の頃の学校給食は、食器はアルマイト(金物素材)製で、しかも先輩達によって長年に渡って使い回されてきたせいか、全体的に表面がボコボコ。
そしてスプーンはもちろん先割れ(それでフォークの役割もある程度は果たせたから便利ではあったが)でした。
小3くらいの頃はユリ・ゲラー等の超能力者の影響から、所謂「超能力ブーム」で、スプーンがよく曲げられて(念力ではなく、実は手で簡単に曲げられるんです。)遊ばれていました。その現場を先生に見つかり、ガッツリと怒られた事もありましたが(^^;)
食事内容については、確か小1まではパン食(もちろん中に何も入っていないパン)オンリーで、小2からライスが登場。
ラーメンは基本的に味噌しか無かったと思います。
その他もいろいろありましたが、それなりに美味しかったものと記憶しております。今ならもっともっと美味しいんでしょうね。
牛乳は三角パックでしたが、毎日だとさすがに飽きてくるので、当時、我が家では犬を飼っていて、時々その犬に飲ませる為に、牛乳をランドセルに入れて持ち帰る事もしばしばありました。
ところがある日、ランドセルに入れた牛乳パックが潰れてしまい、中身の教科書、ノート等が水浸しならぬ「牛乳浸し」になってしまったのです。
そのランドセル自体も、小3までは使っていた記憶がありますが、その「牛乳臭さ」は、最後まで無くなる事はありませんでした(苦笑)
そんなこんなで「ひよっこ」は、心の奥底に眠っていた遠い記憶を蘇えらせてくれる、本当にほのぼのとした朝ドラですね(^^)
スプーン曲げと燃えよドラゴンが流行っていた私の高校時代
体育祭では山本リンダに扮する男たちの応援
中村雅俊や村野武範が青春ドラマのスター
あの頃の朝ドラは鳩子の海
子役の斎藤こず恵がブレイクしたドラマだった。
ちびまる子の世界か・・
本スレの金の卵の話しが面白かったです。
中卒が卵で高卒はひよっこ、大卒はニワトリなのか?
昔の日本人はよく働いたし、何となく大学に行くのは私たち三無主義世代あたりからでしょう。
茨城が舞台になった朝ドラは鳩子の海以来だとか。
結城紬に憧れるおばあちゃんになった私がいる。
小学校1年生の時、校舎は築100年。
教室の床に穴が開いていて、覗いたり。男の子が指を入れて抜けなくなったという事件が!先生がきて、すぐに抜けましたけど。机が表面加工していない、ぼこぼこした机。
表面の半分がふたになっていて、開けて教科書を入れてました。クラスの子が給食を食べている時に、そのふたを開けようとして牛乳が机の中に~。22さんのを読むと、ずっと牛乳の匂いが残ったんだろうなと思います。
ストーブは石炭。石炭が積んである場所から運ぶのは六年生の仕事でした。
小学校2年生になる時、分校や廃校になる学校と合併して新しい校舎になりました。
学校に小さな畑や田んぼがあって、4年生の時にはじゃがいも作り、掘ったじゃがいもは給食のカレーに。6年生では稲作実習があったんですが、父親の転勤の都合で都市部の小学校へ転校。経験出来ませんでした。
おまつりの日に買ったひよっこは派手な緑色でした。
2、3日で飽きてしまい、気づいた頃にはひよっこではなくトサカのある立派なニワトリになっていました。
ある日突然いなくなりました。
首を切られ天井にぶら下がっていのでした。
翌朝、食卓には普段食べたことのない鶏料理が並んでいました。
家族は美味しそうに食べたようですが、お肉好きな私でしたが一口も手をつけることができませんでした。
稲を天日干しするのを見かけなくなりましたね。秋になると故郷では何段もある稲架に稲をかけて干すのですが、稲架の上に登っている人に下から稲の束を投げて渡してる作業や黄金色の秋を思い出しました。
給食ですが基本は瓶の牛乳が出てましたが、たまにテトラパックのコーヒー牛乳が出ました。
ひよっこでもテトラパックの牛乳出るんですかね。
ひよっこの頃は未だ未だ脱脂粉乳時代でしょう。
東京の人に聞くとあの頃学校で牛乳を飲んでいたと言いますが、私の居住地では70年代まで脱脂粉乳でした。
ひよっこの来週のタイトルが「泣くのはいやだ笑っちゃおう」
ドンガバチョを思い出してしまった。
外で遊んでいる子どもは、ひょうたん島の時間になると家に帰って行ったものだったよ。
今でもひょっこりひょうたん島の主題歌を歌えます。
ひょっこりひょうたん島は
http://www.nhk-character.com/chara/hyotan/index.php
当時としては珍しいカラー放送だったけれどほとんどのお家は白黒テレビの時代だったね。
お金持ちのお家に生まれたかったな。
なぁみをジャブジャブ…
「ひょっこりひょうたん島」は、当初はモノクロ放送だったみたいですが、自分が知っている頃にはもうカラー放送になっていましたね。ちなみに当時はカラー放送の番組は、オープニングで画面下に「カラー」と表示されていたのを覚えています。
ちなみにドンガバチョの声の主だった藤村有弘さん。
確か昭和9年会メンバーの中でも、真っ先にお亡くなりになったんじゃなかったかな?
メンバー自体も、当初の人数からすると、今ではもう半分以下になっちゃいましたが。
懐かしくなって、ひょうたん島を調べていたらドンガバチョの歌で自殺をやめた人がいるとかで、懐かしく映像で久しぶりに聞いてみました。
カラーテレビの時代になっていったのでしょうが、明治生まれの祖父は壊れるまで使うと言い張るような人で、昭和50年近くまで白黒テレビを見ていたみじめな思いでがあります。
直接放送を見たことはないけれど、まさにあのフレーズのところ、かつて母親がよく歌って聞かせてくれました。私もしょっちゅうめそめそしてたってことか笑。
ひょうたん島のモデルになった島は岩手にあるんですよね。
吉里吉里浜も岩手で、サーフィンのスポット。これも母からドライブの時に教えてもらいました。
昭和9年会といえば、愛川欽也さんも忘れられない一人ですね。
私が幼少期に日テレで放送されていた「おはよう!こどもショー」
キンキン(愛川さん)は番組内の人気キャラクター「ロバくん」の声を担当していましたが、声だけではなく、実際にロバくんの着ぐるみの中に入っていたというのは、今では結構有名な話ですよね。
そしてロバくんと並ぶ人気キャラ「ガマ親分」
声の主は「巨人の星」の星飛雄馬の父・星一徹でもお馴染みの加藤精三さん。
それから「キューピーちゃん」こと石川進さん。
誠に残念ながら、ここまで挙げた方々は皆、既に鬼籍に入られてしまいました。
雷門ケン坊さん、そして「びんちゃん」こと楠トシエさんは、まだ御存命なのでしょうけど、現在はどうされているのでしょうね?
おはよう!こどもショーと共に印象に残っているのが、同じ日テレの「ロンパールーム」ですね。
この番組を最初に認識したのは、後に愛川欽也さんと夫婦になった、2代目お姉さんのうつみ宮土理さんの時でした。
「鏡よ鏡よ鏡さん・・・」で始まるオープニング。
その鏡。なぜか枠だけなんですが(^^;)
「ニコちゃん」「コマッタちゃん」等のキャラや、みんなで牛乳を飲みながら楽しむコーナーもあったと記憶しています。
ただ、どちらの番組も、思い出される映像に、どうしても色がつきません。
当時の我が家のテレビが白黒だったためなのか?あるいは、そもそも放送自体がモノクロ放送だったのか?実は、その辺の記憶はあやふやですが、白黒で見ていた事だけは間違いないものと思われます。
あっ、白黒テレビといえば、33さん、36さん、白黒テレビは、チューナー接続により、現在でも地デジ放送が受信可能だそうです。ただ、それを実践されているご家庭があるのかどうかは不明ですが。
36さんのお爺様は物を大切にされる方だったんですね。
私の祖父もそうでしたけど。
うちはカラーテレビ導入が凄く遅かった。
理由はNHK受信料が白黒からカラーにすると料金が高くなるからとカラーテレビにしないんだと父が言ってたからだ。
受信料の集金をしてる方がどこそこの家はまだ白黒だ、などと言いふらして広まるような狭い町だった。プライバシーがない田舎がとても嫌で東京に出た。
ジェスチャーが懐かしかったが、わたしはそれより鉄腕アトムの歌と子どもを持ち上げて空を飛んでるような遊びを懐かしく思い出した。あの頃小学生だったけど、高校生のいとこたちは受験あり恋ありで輝いている気がした。出稼ぎ農家に嫁に行っても大変なだけだし、旦那とは半年別居で貧しいから、サラリーマンマンと結婚するのに夢見るのが普通だだだのだろう。みね子のような子はドラマ用に作られた感じがする。
サラリーマンと結婚するのを夢見るのが普通だったのだろう。に訂正します。読みにくくてすみません。
本スレにありましたが、
家つきカーつきババア抜きって言葉がありましたね。
田舎の長男の嫁は農家でなくても大変だったね。
田舎じゃなくても大変か・・
バスの車掌さんが懐かしかったこと
車掌さんはほとんど女性だと思っていたけど
長野県のバスに乗ったときに男性の車掌さんに初めて会った
薄い色の紙にバス停の名前が並んでいる切符が懐かしい
バスが揺れてもパチンと穴をあける車掌さんを尊敬していた
私の田舎は男性の車掌さんばかりだったなあ。
大きながま口型のカバンが凄く印象に残っている。
ああいう地域っていつ頃ワンマンバスになったんですかね。
田舎といっても関東だし意外と早かったのかな。
次郎はそしたら何をするんだろう。
う~ん、大型二種免許があるなら運転手も可能。
メカニック、整備士等の資格があれば車検・整備・修理なども可能ではあるけど、次郎はどうかな?(^^;)
昭和40年代にはワンマンバスが走っていました。
定時制高校に通いながら車掌をやっていた友人はバス会社の事務職に変わっていました。女性はバスガイドに変わる人もいたようです。
ひよっこはいつの時代までやるのかな?
次郎は人なつっこい(たまにKYかなww)だから人と接する仕事が合いそうですね。
村の人の面倒みるような。役場とか似合いそう。
車掌はいませんが、私の県ではつい最近までボンネットバスが走っていたのをニュースで見たことがあります。といっても山の奥のすごく奥の路線ですが。
昔から茨城をいばらぎと言ってたのかな。
もうすぐ平成が終わっちゃうんだらいばらぎも正解でにしちゃったら
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