子供の頃聴いた百恵ちゃんのひと夏の経験は印象的だった。
こんな女の子にHな響きのある曲を唄わせてと恥ずかしかった思い出がある。
当時の百恵さんは15歳。
でも、昔はそれくらいの年齢のアイドルでも、今の子よりもずっと大人だったから、周りのスタッフも、その辺を念頭に置いた上で、あのような「大人の楽曲」を提供したものと思われます。
対して有村架純ちゃんは現在24歳ですが、15歳当時の山口百恵さんよりも幼く見えます。
それはそれで、架純ちゃんが可愛いからいいんですけど、時代とともに、それだけ変わってきているんですね。
百恵ちゃんはお父さんがいなくて、家族のために必死で歌っていたようです。バカにしないでよ〜なんて本心だったのかもしれません。
ひよっこを見ていて自分のためにではなく、家族のために生きるということを考えさせられました。
百恵ちゃんが引退したのって
21歳くらいじゃなかったっけ
CMで百恵ちゃんが、初めまして二十歳の私と歌っているのを聞いて
えーそんなに若いんだと驚いた記憶がある。
引退もそのすぐ後だったと思う。
佐藤総理、池田総理で、ある回文を思い出しました。
佐藤、池田総理、嘘だけ言うとさ(さとういけだそうりうそだけいうとさ)
「私は嘘を申しません。」
当時小学生だった私も真似をした記憶があります。
だいぶ後になって
記憶にありません。
というのも流行ったね。
本家に「集団就職 英伸三で検索してみて」 とあったので検索したのですが、白黒写真が多く赤いコート論争のヒントを見つけられませんでした。
ごめんなさい、どういう意味なのか教えていただけると嬉しいのですが。
英伸三さんを初めて知りました。昭和の懐かしい写真がたくさん出ていますね。私は赤いコートなどどうでもいいです。上野駅の雑踏でヒロインが目立つような演出かな?くらいにしか思っていません。あの上野駅のエキストラがすごいなあと今日は感動。
マヨネーズは小学生の時に初めて食べてハマっていたのを思い出しました。
「私は赤いコートなどどうでもいいです」
あなたが興味無くてもこんな言い方されると私は悲しいです。
上野駅のシーンは力の入れ具合がこちらまで伝わってきて、本当にゾクゾクしました。
エキストラの熱量も!
109さんごめんなさい。本スレで論争になっていたけど、私はあまり気にならないということです。
111さん。109です。こちらこそ過敏になりすみませんでした。
109です。連投失礼します。
もしかしたら単純に、「集団就職 英伸三」で検索すれば当時の女学生の写真がありますよ、ということなのかもしれませんが、どなたでも色のことなど何か発見がありましたら教えてください。興味があります。批判の材料にするつもりはありません。
白黒写真しか当時のことはわからないので、赤でも黄色でも青でもどうでも良いと言うのでは。
私は赤に見えると思えばそう見える。
学校から帰ると、レインボウー戦隊ロビンの再放送やってました。カールかかっぱえびせんを頬張りながら、ロビンやリリーの活躍を見た後、晩ご飯までのあいだ予習復習をするのが日課でした。とても懐かしいです。
本家では乙女寮での食事シーンに出てきたマヨネーズについてのコメントが結構ありますが、自分は正に昭和40年生まれで北海道出身なんですが、自分が物心ついた頃には、あの容器のマヨネーズは普通に存在していましたけどね。少なくともキューピーなら(味の素マヨネーズは、もう少し後に登場したと思います。)
ちなみに今も続く長寿番組「キューピー3分クッキング」は、この頃には既に放送開始していたようですね。
澄子ちゃんは、セーラー服の下にシャツだかブラウスだか着てますねー、滅茶苦茶なセンスなんすが、何となく微笑ましいです。それにしても、ここの皆さんは刺がなくて余裕があって、とてもいい感じですね。
ドラマから何年か後の話ですが、弟がすっぱい味のK社のマヨネーズがダメで、食卓にはA社のマヨネーズも用意してありました。そういえば、市販のドレッシングが発売されたのもこの頃だと思った(間違っていたら御免なさい)のですが、「ひよっこ」に出てくるのでしょうか。
昭和40年生まれの方が物心ついた頃というと44年か45年頃ですか?あの時代は目まぐるしく文化が発達した時代ですから4、5年後の情報だと…なんも言えねえって感じだべ。
セーラー服の下に冬はセーターを着ていた記憶があります。寒い地域ではそれが普通でしたね。東京に修学旅行に行く時にセーラー服の下にブラウスなどを着るのは田舎ものに見られるからやめようと先生に言われた記憶があります。
小学校の家庭科でフレンチドレッシングを作ったけど、マヨネーズのほうがいいと言う声が多数派だった。何でもマヨネーズをかけるのではなく、いろんなものがあるのだと先生は話しをしていた。
私も酸っぱくないA社のマヨネーズが好きで星型の絞り口が出た時は嬉しかった。
東京オリンピックの頃の我が家は以前も書いたけどカレーにはクジラ肉やさば缶だったりした。その時にマヨネーズが食卓に出ていた記憶はない。
久しぶりにきてみたら
84さん
レインボー戦隊ロビン、ご存知だったんですね。嬉しいです。
ロビンが「ペガサス、スタンバイ!」って凛々しい声で言うのが好きでした。
昭和30年代の生まれですが、いわゆる「鍵っ子」で、妹と留守番しながらレインボー戦隊ロビンを見てました。
映像で初めて見てみたけど、少年ジェッターや鉄人28号を思い出すキャラクターですね。
少年ジェッター、知らないなぁ〜と思って映像探したら、なるほどロビンと重なりました。
しかも主題歌聴いたら知ってる知ってる(((o(*゚▽゚*)o)))
この曲、懐かしい〜。忘れていただけでした〜!
昭和のいろいろ 、忘れてることも多いのかも。
ひよっこ見てて思い出すことがまだまだありそうです。
あ、115さんもロビン見てらしたんですね〜。嬉しい♩
116です。言葉足らずで申し訳なかったですが、マヨネーズの件は、今年で満81歳になる私の母によると、K社のは「あんたが生まれる前からあったよ」との事でした。
ちなみに私の母は、昭和11年生まれで、私を産んだ昭和40年当時は満29歳。みね子のように乙女寮に住んでいる女工さん達の年齢が15~29歳という事なので、ちょうどその中の最年長の人と同い年という事になるのでしょうか。
そうですね。119さんが仰る通り、物心のつき始めは大体4~5歳です。
ちょうど高度成長期が終焉を迎え、大阪では万博が開催され、東京では光化学スモッグなど公害問題が深刻化していた時代ですね。
我が家にカラーテレビがやってきたのは昭和44年頃らしいんですが、自分の見た記憶の中にある最古のテレビ番組といえば、たぶん巨人戦のプロ野球中継だったと思います。背番号1番の選手が1本足でホームランを打っていたり、同3番の選手の躍動感に満ち溢れたダイナミックなプレーが、大変に強烈な印象として、自分の記憶の中に刻み込まれてしまったようです。
そうです。私がプロ野球選手として初めて認識した、この両名こそが、あのON(王・長嶋)だった訳で、私が永らく巨人ファンだったキッカケでもありました。
もっとも今は、地元のファイターズを応援していますけどね(笑)
ただ、この巨人戦の映像の記憶、どうも白黒のようですね。
先に触れたように、カラーテレビが来たのが昭和44年だったとして、白黒テレビが同43年以前と考えると、当時の自分の年齢はせいぜい2~3歳。それでも記憶に刻まれているのは、その野球中継が、相当に強烈な印象だったんでしょうね。
そんな幼かった私も、間もなく満52歳。あの石原裕次郎さんが亡くなった時の年齢なんですね。遥か年上だった、あのボスに、とうとう追いついちゃうなんて・・・喜んでいいのかな?
心境としては、とても複雑な気持ちですね。
ひとりごと。「アヒルの行列よ」なんて、堅苦しい成績の話をまーるく終わらせるための言葉かもしれない。あの場でこれが4でこれが3でというのも野暮な話。
みね子はマヨネーズのCMも見たことなかったと思います。
何故なら実家ではNHKしか観ていない家庭だったからです。
民放をあまり観ていない家庭は少数ですが実際に有りました。
インド人もビックリを見て弟が真似していましたから、民放のCMを見ていたのでしょう。いろんな事が茨城の史実と違ってもドラマですからあまり気にしません。
日本のCMはどんな商品なのか具体的に表現しないものが多い。
インド人もビックリはカレーを知っていれば想像つくが、
マヨネーズという言葉すら知らなかったら、
キューピーのCMは見ていてもスルーだったんじゃないかと想像している。
実際、そのようなCMは未だに多く、何の会社のCMだったか忘れたけど、
当社が何をしてる会社か知ってますか?とある日CMで言ってて、
何度も聞いたことのある社名なのに知らなかったし、
何をしているかなんて考えてもいなかった。
CMなんてそんなもんだと思う。
サラダではなくお浸しとか煮物中心の野菜料理ならマヨネーズは使わないです。トマトなどは塩をかけて食べるから我が家ではマヨネーズは使いません。ドレッシングなら自分で時々作ります。
多分昔の田舎はこんな感じだったのでしょう。
アイルランドを知らないっていうことが話題になっていたけど,BSの世界鉄道の旅だったかな?アイルランドが出ていました。看板などには現地語と英語の二通りで表示されていました。イギリスから独立したようだけど,戦いや差別など色々と大変な歴史があるようですね。ビートルズのポールやジョンはアイルランド系のようで平和の歌を歌っていた記憶があります。
2017-05-01 08:26さん
英慎三さんについて、書き込んだものです。直前に「金がないのに、なんであんな立派なコートを着ているんだよ。おかしくてしょうねえよ。」とあったので、事実として沖縄の子ども達はみな立派なコート着てますよ、と伝えたかったのです。その前から、集団就職者がコート着るなんてありえない、画像検索してもコートなんか着ていない、という意見があり、英さんの紹介をして事実を示しても延々と同じ議論が蒸し返されたので、ちょっとムキになったかもしれません。感想を否定するつもりはないのですが、事実と反した意見の連続で時代考証の誤ったドラマだと印象づけている気がしました。「赤いコートは演出としておかしい」というような批判意見は、まったく問題ないと思います。
ご覧の通り、色はわかりませんが、黒や紺以外ありえない、という意見もあったので、それ以外の色もありますよ、と書きました。赤いコートの賛否は人それぞれ自由だと思います。私は赤い色を選んだ美代子さんの心情に共感します。
何よりあの写真を見て、沖縄のお母さん達の気持ちが伝わり、感動しました。そしてみね子のコートそっくりの先頭の女の子の硬い表情にみね子の心情が重なり、コート談義は別にして、あの写真を多くの人に見て欲しいと思いました。
興味を持っていただきありがとうございました。うれしかったです。
英伸三でした。
恥ずかしながら「スーパージェッター」と「宇宙少年ソラン」の区別がつかなかった時期がありました。どちらも白黒放送で、ジェッターのほうは、数年前にCS放送のTBSチャンネル1での再放送がありました。
ただ、白黒アニメについての長年の疑問なんですが、あれって、放送は白黒であっても、使用されるセル画を作成する時点では色を付けて描いているのでしょうか?単純な白黒という感じにも見えないし、キャラクター商品なども、もちろん、ちゃんと色が付いてますからね。
その辺の事情に詳しい方のご回答をお待ち申しております。
114さん、133さん書き込みありがとうございます。113です。
色のことではなかったようですね。思い込みをしてしまって失礼いたしました。
写真からは色はさておき濃淡色々なコートを着ている感じが見てとれますね。
133です。私も「昭和を語ろう」に参加させてください。あの写真のコート、沖縄のお母さんたちはどうやって手に入れたのでしょうね。お母さんたちは、コートなど着たことなかったでしょうに。3番目の襟の黒い?コートなんか、お洒落ですね。色の濃さが違うので、きっと様々な色があったと思います。113さんは赤い色に何か思い入れがあるのですか。私は赤いコート擁護派でしたが、九州の片田舎なので、正直赤いコートなんて、サンタクロースしか着ていませんでした(笑)それにしても、ここはいいスレですね。
135さん
アニメの歴史で検索するとカラーやモノクロ放送について少しわかります。日本で初めてカラー放送されたアニメはジャングル大帝だとか?そう言えば鉄腕アトムはモノクロで見ていました。ジャングル大帝は親戚の電気屋さんのテレビでカラーで見たことがあります。
少年ジェッターはモノクロで放送されていたものを海外用にカラーにリメイクしたものがあるそうです。
宇宙少年ソランなども今見ると手塚治虫さんの鉄腕アトムの影響を受けてるなあと感じます。
沖縄はまだ本土返還されていなかった時は集団就職でもパスポートが必要だったのでしょうか?元チューリップの財津和夫さんが九州から上京する時に外国に行くような気持ちだったと言っていました。遠くの方は簡単に故郷に帰れない大変な気持ちで旅立ったのでしょう。
138さん
甲子園球児もパスポート必要だったから、必要だったのでは。本当に外国に行く気持ちだったのかも。差別もひどかったと聞きました。お母さんたちは、本当に辛い思いで、コートを準備したでしょうね。
私は昭和38年生まれで、父は教員だったから平均的な家庭だったと思うけど、幼稚園までテレビは無くて、隣のおじいさんの家に毎日「お母さんといっしょ」を見に行きました。でも大相撲があるときは見せてもらえなくて、相撲が嫌いでした。いつテレビがきたか覚えてないけど、ソランとかマッハゴーゴーゴーとか見た記憶があります。ジェッターは知らないなぁ。南九州なので民放も1つしかなかったから、放映されなかったのかな。
138さん、135です。ありがとうございました。長年の疑問がついに解けました。
実は白黒放送の場合は、セル画も白黒用の濃淡色を使用していて、しかも種類も多く、最高で20色くらいの色(を使い分けて塗っていたそうです。
単純な白黒に見えなかったのは、たぶんこの為かと思われます。
ある意味、カラーで塗るよりも凄いというか、技術が要りますね。
50年以上前でありなあがらも、これ程の強い拘り&技術。
こういうのは「積み重ね」ですから勿論、現代にも繋がっています。
そりゃどんどん進歩・発展していく訳ですよね。
ちなみに昭和39年1月25日に放映された「鉄腕アトム」の第56話も、カラーで制作されたらしいです。
たぶん、実験放送的なものだと思われますが。
もっとも、当時の受像機は殆どが白黒。たとえカラー放送であっても、白黒でしか映らないのであれば、実質無意味ですよね(笑)
それから、138さんもそうなので、大変に恐縮なのですが、ここの掲示板で「少年ジェッター」と表記されている方が多いようですが、皆さん「少年ジェット」と「スーパージェッター」を混合されておられるのではないでしょうか?
ちなみに「スーパージェッター」はアニメですが「少年ジェット」は、実写版ヒーロー作品です。
皆さん、揚げ足取りみたいになってしまい、ほんとうにすいませんでした。
138です。スーパージェッターと少年ジェットを混同していました。ご指摘ありがとうございます。
このスレのおかげで昔のアニメやヒーローものを思い出せて楽しかったです。
マヨネーズは、農村部であっても、その家の主婦が女学校を出ていたり、都会のハイカラな家庭でお手伝いさんなどをしていると、戦前から手作りしていた例もございます。
箸を何本も持って、ぐるぐる泡立てたとのこと。
新制高校に通ったミネコ世代なら家庭科で作ったこともあるだろうし、村のよろず屋でも商ったはず。
そこのところは、おかしいな〜、と思ってみてました。
昭和40年台、私の家では醤油、酢、ウスターソース、マヨネーズ、ケチャップしか調味料はなくて、焼き肉のタレは母の手作りでした。ソースにニンニクやら玉ねぎやら一升瓶に入れて発酵させたものだったような気がします。母自慢のレシピで近所の人が習いに来てました。しかし焼き肉のタレが販売されて、それを初めて食べたとき、あまりの美味しさに感動したら、母がすごく悲しい顔をして気まずい思いをしたことを覚えています。お好み焼きは、ウスターソースにマヨネーズとケチャップを混ぜたものを使いました。フレンチドレッシングは小5の家庭科で初めて食べました。家に帰って作って家族に食べさせてほめられました。多分母は作り方は知っていたでしょうが、好みではなかったのでしょう。料理好きの母で、コンクールで賞をとったこともありましたが三年前に87才で亡くなりました。
冷蔵庫が家庭に普及して肉料理などの洋風料理が広がり、マヨネーズも使われるようになったのが昭和40年くらいではないかと、農村に住んでいた私は思います。キューピーは大正時代からマヨネーズを作っていたらしいですが、卵が貴重だった時代なので当時のマヨネーズは高価だったとのこと。味の素マヨネーズが昭和43年に発売されて、その頃から市場は拡大されたと書いてありました。
奥茨城の産みたての卵でマヨネーズを作ったら美味しそうですね、美代子さん。私はカロリーを気にして最近は食べなくなりましたが。
124です。
ほんとだ、スーパージェッターと少年ジェットは違うんですね。
映像確認したら、知っていた懐かしい主題歌はスーパージェッターのでした。思い込みでスーパーを少年と記載してました。
教えてくださってありがとうございます。
ここは、みなさんの優しいお人柄がわかるような文章が並んでいて、気持ち良く昭和を語れる場所だなぁ、と感じています。
昔の鯉のぼりは黒色と赤色の2色鯉でした。
当時珍しかったカラーテレビで東京オリンピックを見ていた職人さんがカラフルな鯉にすればもっと良くなるとヒラメキ、現在の鯉のぼりになったそうです。
私の母はマヨネーズの使い方がわからず、ご飯にかけて食べたと言ってました。
それが、正確な年代はわかりませんが母が若い頃の話なので、昭和30年代頃だと思います。
田舎の人のマヨネーズの認識って、そんなものだったんでしょう。
日本橋方面は日本橋とつく地名がどうしてこんなに多いのか疑問だった。
今の中央区は日本橋区と京橋区が合併したもので旧日本橋区だった所には日本橋〇〇とつく地名が多いということであった。
私は田舎から出てきた東京人、ごはんにマヨネーズもマーガリンもかけて食べたことはあるけど、それが田舎の認識というわけではない。
私の小学生の頃、給食には四角い小さなマーガリンが付いてきた。
小学2年生のある日、そのマーガリンを天井に投げて遊んでたらお隣の教室の先生に見つかり怒られ頬にビンタされた。
今なら体罰なのだろうが、その先生は悪い事をした子供達にビンタするので恐かったが面白いお話しをしてくれたりする学校1番の子供達に人気の良い先生でもあった。
昔は学校の先生に怒られたり殴られたりしても、親はそれを容認していました。「お前が悪いから殴られるんだよ。先生にも、うちの息子が悪さをしたら、遠慮なくガンガンやってくれと伝えてある。」てな感じでした。
もちろん、親のほうも子供が悪さをすれば容赦なくビンタするし、親どころか、近所のおじさん、おばさんだって、たとえ人の子であろうとも、時には自分の子供同様に、ものの善悪というものを、しっかりと教育してくれていました。
それでも、立場に関係なく、地域の大人達と子供達との間の信頼関係は絶大でした。だからこそ、たとえビンタを食らっても、それを暴力や体罰などではなく「愛情」と受け取る事が出来たんです。
今は親自体も、物があふれた時代に生まれて、さんざん甘やかされて育ってきているから、自分の子供にも、やって良い事、悪い事など、まともな一般常識を教えられない。
しかも、そういった、本来ならば家庭で教えなければならない事を、全て学校に「丸投げ」しているくせに、その学校で、ちょっと何か問題が起きると、自分の子供にも非があるかどうかといったところは度外視して、一方的に学校や先生のせいにする。
これでは学校も先生もたまったものではありません。
傷ついて教師を辞める人や、教師になりたがる人が少ないのも当然ではないでしょうか。
所謂「モンペア」にも本当に困ったものです。
また、近年の若者の犯罪行為なども、同情の余地など全くない、自己中で身勝手極まりないものが多いですが、こういった事と無関係とも思えません。
さて、月光仮面や七色仮面など、歌詞にあるように昔のヒーローは「おじさん」だった訳ですが、とあるサイトで、ヒーローについての印象的なコメントを発見したので引用させていただきました。
まったくその通りだと思います。
↓
昔は正義の味方は全部おじさんだった。昔のおじさんは強くて偉かった。援助交際なんかしなかった。昭和30年代のヒーロー物は親や先生が言うよりも子供たちへの教育になっていたと思う。「よい子にしていれば困ったときに正義のおじさんが助けに来てくれるんだよ」というメッセージを送っていた。それによって当時の子供たちは正義は大切で守らなくてはならないし、悪はやってはならないし無くさないといけない、と学んでいたんだ。
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