昨日のみね子のズボンはパンタロン?
ちょっと裾幅足りない気もしたけど、ピンキーとキラーズの今陽子さんの黒のパンタロンスーツもよく覚えてます❗見ない日はなかったような、ピンキラ。黒い帽子をちょっとはすかいにして歌うのに しびれてました~‼
朱里えいこさんの美しいおみ足も堪能ものでした。
ツィッギーみたいな脚は奇跡ものだと思うが、外国人は椅子の生活、日本人は畳み、正座の生活で足が曲がって外国人のような綺麗な脚にはならないと聞いたことあり。
ほんとかな?
エールの古賀メロディを聞いて、美空ひばりさんの「柔」は古賀政男さんの曲だったのを思い出しました。両親が古賀メロディが大好きで、先日遺品の中から古賀政男さんの特集番組の録音カセットテープを見つかりました。それを聞いてエールの木枯しさんと繋がる面白さを残してくれました。
私は小林幸子さんが古賀政男さんの弟子だと知っていたので、ずっと同郷の幸子さんを可愛がっていたのだと、勘違いしてましたが、エールで古賀政男さんは九州の出身と知り、あれま‼でした。
昔は歌番組がたくさんあり、毎日のように聞いていたのに、レコードも親が即買いしてました。カセットも!
ラジカセ、ヤスハルはラジカセで練習してるのかな🎵
ラジカセが普及したのは70年代ではないでしょうか?
60年代の我が家にはオープンリール式のテープレコーダーしかありませんでした。
小林幸子さんは、あまちゃん春子が出ていたような素人の歌番組で勝ち抜きチャンピオンになり、古賀政男さんに認められたようなことを、微かに覚えています。当時小学生の彼女は天才少女歌手としてデビューして行きました。
ひばりさんの真っ赤な太陽、みてきました。カッコイイ!!
67年というと…私のアイドルはもぐちゃん(おはようこどもショウ)と植木等でしたわ。
604さん、小林幸子さんもかなり苦労されたようですね。
🎵おもいで酒のヒットで、長い間の苦労と我慢が報われて良かったです。
テープレコーダー…うちにもありました。たぶんそれだろうけど、初めて自分の声を吹き込んで聞いた時の衝撃…。
二度と吹き込みはしませんでした。
で、やがて タンスみたいに大きなステレオというものがでてくるんですよね?スピーカーもとても大きな。
605さん、植木等さん‼スーだら節とか、いい加減男とかの映画のポスターも銭湯にいくとたくさん貼ってありました。
まだまだ邦画の全盛時代でしたよね😉
おぉ、テープレコーダー。渋谷陽一さんが布団被ってラジオを録音してたって語ってたような。カセットテープは画期的だったんですね。
ああ❗
渋谷陽一さん❗
知ってますです❗
ラジオ番組、聞いていたような…。
お顔もうっすら覚えております。
懐かしいお名前でありますね😆
テープレコーダーはテープが絡まったり切れたりして操作が大変だったらしいのです。カセットテープは大発明だったのではないでしょうか?
大ヒットした「帰ってきた酔っぱらい」の声はテープレコーダーを早回しして作った声だと言われてます。
おぉ、「帰ってきた酔っ払い」。登下校で大合唱してました。神様の声色まで真似て。
懐かしいですね、カセットテープ。
昭和40年代半ばにオヤジが海外出張することになり、テープレコーダーを買って毎日ラジオの「英語会話」を録音して勉強していたのを覚えている。今考えるとオヤジは当時30代半ば。よくそこまでやる気になれたものだと思う。会社が契約したハイヤーが家に迎えに来て出かける時と帰ってくるときに家族総出で羽田まで行ったものだ。
ひよっこ、下町の太陽🎵
よく聞きました。
小学生時代には学校の体育館で映画を観ました。
「同胞」 「黒部の太陽」などを覚えてます。題名だけ。
飛行場から一時間あたりの場所に住んでるけど、飛行機は覚えていない。でもヘリコプターがよく飛んできて、ビラや散らしなどを上空から撒いていて、なんか知らんが一生懸命 拾った思い出があり。
チンドン屋さんも見た覚えあり。
野良犬もよくいました。
このスレ、最初から10までですが遡って読んできました。
良いですね、和気あいあいとして、懐かしい話題がたくさんでした。
色々 思い出された事もありで、また時間見つけて続きを読みたいです。
みね子が助けたせつ子さん、辛い人生、華々しい世界で生きてはいるが、幸せとは縁遠いせつ子さんに なんとか幸せになってもらいたく、みね子らしく頑張る姿が良かった。
つぶらな瞳のみね子が、今日はとても一段と可愛く見えた。何かを成し遂げた達成感が伝わる回でした。
ヤスハルがちょっと可哀想でしたが、笑。。
数日前まで気づいていなかったのですが、ここ、いいですよね。今日も懐かしいお話を有難うございました。忘れていた記憶、その時の気持ちが蘇ります。…野犬狩りで大号泣したなぁ。
ヤスハルの見えない優しさが好きでした。
見えんけれどもいる、という言葉を思い出しました。
誰か隣に困ってる人がいれば助けるのが昭和で
隣に誰が住んでるのかもわからないのが今なのかな?
地球環境が変わって大きな災害が増えた。
人は助け合い支え合い生きて行くものだと思う。
でもでもコロナがやって来て、人とは距離を置くことになる。
つながることを考える令和。
ちんどん屋さんは昭和の終わりまで見かけた。
ほほを丸く赤く塗ってるメイクから、男だけどももちゃんと呼ばれていた、ちんどん屋さん。仕事がない時にもラジカセを鳴らして一人で楽しく踊っていた。ももちゃんは今いないのだろう。
寅さんの隣町の住民
スレ主です。
ひよっこは、もうすぐ終わるのでしょうが、昭和の思い出語りに1000まで自由にお使いください。
スレ主は仕事と私用で忙しくなりそうなので、時間がある時に気ままに参加します。
新「ひよっこ」ファンスレスレ主です。
ここの雰囲気を壊さないように場の空気を読みながら時々参加させて下さい。
1から読んではまだいませんが「ロバのパン屋」の話は出たでしょうか。懐かしすぎて涙が出そうです。
私は進世代、渡辺謙や辰巳琢郎と同世代です。よろしくお願い申し上げます。
昭和末期に武漢ウイルスが発生していたら、罹患者数は遥かに深刻だったはず。当時通勤電車の混雑は路線によっては300%越え、成人男性喫煙率は85%、小中学校の一クラスは40人以上が当たり前、下水道普及率は今とは比較にならないくらい低かったのだから。
スレ主は桑田佳祐さんと同学年です。
♫今何時?そうね、だいたいねー
昭和の思い出は曖昧で、だいたいに書いております。
♫ラーララララ…
追加
スレ主は岡江久美子さんとも同学年でショックを受けました。
では、また。
611,620はシブがき隊、別所哲也と同年です。若い人は書き込んでいないみたいですね。
普通の街中に住んでいて、町内毎に色んな個人の店があった。
魚屋、八百屋、雑貨屋、薬屋…食堂も、しゃれたレストランは離れた場所だったが、子供の頃には行ったこと無し。
高校出て初めて入った喫茶店。
商店街は すっかり寂れて、今はショッピングモールばかり。小さな個人の店は無くなった。
男はつらいよ、寅さんの世界にも昭和をたくさん感じて、懐かしくて涙が出る。
私も、ひよっこ すすむの年代です。
こことあちらのスレ主さん、ふたりイタ━(゚∀゚)━! あ、失礼、喜びのあまり。
ヤスハルさんといえば、私にはお父様の古舘伊知郎さんの局アナ時代の忘れられない思い出が。海外の丸太乗りのニュース映像なんですが、実況中継さながらに「おぉっと、小刻みにステップを踏んでいる、踏んでいる、踏んでいたのに、少しすべったぁ!そして股間を激しく丸太にゲキトツーーー!!」が忘れられません。ダイナマイトキッドが好きだった母が、涙を流して笑っていました。楽しい思い出を有難う古館さん。
昭和が終わったのはもう32年以上も前。昭和の記憶が残っているのは35歳以上だろうから、若い人が書き込んでいないのは当然か。
わたしにとって30代は若いです。
昭和と平成の違いって何でしょね?
愛子さんのベッド横の壁にプロレスのポスターが張ってありますよね。
はっきり見えないが、たぶんジャイアント馬場さんらしき人かな?と。
プロレスも夜よく入っていて、うちの父親らがよく見ておりました。
たぶん隔週で野球の中継もあり、子供向け番組がよく無くなった時もあったような…。
で、プロレスの中継アナウンサーで凄く叫び喋るアナウンサーがいて、あれがたぶん初めて古館さんを知った時、かな?いつか忘れたけども。プロレスだよね?K1とかじゃないと思うが。
プロレスブームは確かに凄かった!
スカーレットにはキックボクシングも出てきました。
昭和と平成の違いは、ゆとりってやつかな?
昭和生まれと平成生まれの明らかな違い。
物心ついたときにケータイ電話があったか無かったか。これが大きい。私が物心ついたときには家の電話すら無かった。
そうですね、アナログとデジタルの違いなども大きい。ものすごく大きい文化の差を感じます。
世津子さんと愛子さんの4の字固め、可愛らしかったぁ。4の字といえば、デストデストロイヤーにかけられ苦しむ局アナ時代の徳さん。その周りをわ~わ~いってるとせんだみつおとマギーミネンコ。せんださんは子供服のモデルさんだったんですよね。みねんこ、もとい、みねこちゃんが見ていた洋服の雑誌は「ドレスメーキング」かな?懐かしいです。
昭和40年頃の私(小学校低学年)の最高の娯楽。
市電やトローリーバスに乗って百貨店で買い物をする親についていき最上階のレストランでお子様ランチを食べ屋上にある小さな遊園地で電動のお馬さんの人形にまたがって遊ぶこと。
今日の回、由香が皆と和解できて良かった。
しんみり泣けた。
抜けるように白いとは由香ちゃんみたいなことを言うのだろうな。
綺麗な白い肌が羨ましいおばちゃんです。
今朝、バナナを包装してあるビニール袋を見て驚いた。ベルマークがついていた。
ベルマーク、集めましたよ‼小学生時代。中学では覚えてないが、せっせと集めては学校に持っていった。
今は集めてない学校の方が多いのか?
集めては持っていった私のベルマークで学校の何の設備がよくなったかは知らないが、今も見つけたら集める私です。
甥っ子の学校は小さな学校だが、集めているので。
おぉ、ベルマーク!小学生の頃にはベルマーク係なんてのがありました。ひたすら牛乳を帆布袋で運ぶ給食係が好きでした。そして余った牛乳を野良犬に運んでいたのでした。
野良犬、雑種系の犬の方が絶対 可愛いと思う私です。
ブランド犬には興味はないので、可哀想な犬の里親探しに一生懸命な方の活動には頭が下がります。
私ん家は集合家屋なので、犬猫は飼えませんが、里親探しのチラシを見るたび、早くいいところ見つかるといいね、と祈りながらチラシのワンちゃんの写真眺めてます。
さて 次のサブタイトル?にあった、
🎵真っ赤なハートを君に…
なんか聞いたことある のでWikiを見てみれば、荒木一郎さんの曲ですよねえ⁉
素敵な曲、真っ赤なハートを君にってフレーズのメロディしか浮かばないけど、YouTubeで聞いてみるか、と思います。
荒木一郎さんのお母さんは女優の荒木みちこさんですよね。よくドラマ見てましたよ。
「ひよっこ」の頃にはレーシングカー、トランシーバーも流行りましたね。当時としては最先端の技術だったのでしょうか。
真っ赤なハートを 君に 捧げているんだ 君に わかってほしいのさ すてきな君にだけ♪
「ひよっこ」の頃、ケロヨンに夢中。うつみ美登里おねえさんとギャロップしてたので、初耳でした。来週はなんだか華やかそうですね。
♪マッハゴーゴーゴォォォは熱唱していました。
あ❗
マッハご~ご~‼観てました。
ヘアピンカーブを走るドライバー😆
ジャングル大帝を歌うアイジョージさんの低音歌唱が今も耳に残ってます。
ベルマーク、冷静に考えたら、手間と人件費を考慮すればとても合わないだろう。当時はボランティアでああいうことをやる母親が多かったからこそ成り立っていたものではないかと思う。今だったらあんなことやるくらいなら仕事に出るだろう。
母親が買い物をするたびに「ブルーチップ」とか「ロータスクーポン」を集めていた。今で言うポイント制に近いものだが、貯めた枚数によってカタログに掲載しているものと引き換えられた。ベルマークと違って個人で交換できたので幾分ましだったと思う。
う~ん、どうなんでしょ。ベルマークほしさに品物買うというより、買ったらついてた、そんな感覚?
なんでもかんでもにベルマークついてなかったし。
ロータスクーポンは全然見かけなくなりましたよ。
ブルーチップも扱う店は決まっていたし。
でもベルマークは学校のため、子供のため という気持ちがボランティア精神を上回っていたのは私の正直な気持ちです。
「マッハGoGoGo」は主題歌カバーを「水戸黄門」うっかり八兵衛の高橋元太郎さんが歌ってましたね。
ベルマークは切り取って台紙に貼り付けるのに物凄い手間がかかっていたんですよ。学校によって違うかもしれませんが、うちの学校では各家庭から集めたバラバラのベルマークを整理するのはPTAの役員をしていた親の役目でした。あまりに面倒なためか、そのうちやらなくなった記憶があります。
それは大変でしたね❗
うちの学校はどうだったか分からないです。
635さんのように、うちの学校にもベルマークかかりというのがあり、生徒がベルマークの処理をしてたように思います。
PTAの親御さんがしてたなら大変だと思います。
今日は ひよっこありませんが、みね子の実家が花栽培を始めるのかな。
花と言えば、花も学校に持っていきましたよ。
それこそ道端に咲いてる野菊の様なものでも。
花があると雰囲気良いですね。
いつもいつも誰かが持ってくる訳でもなく強制でもないし、やはり気持ち なんですよね。
出稼ぎから帰ってきた実にコスモスの花束を渡した千代子。
あのコスモスの綺麗な花束が今も目に浮かびます。
明日は父の日。
谷田部家の父の日も母の日も、そして当時あった敬老の日も、きっと暖かさ満杯だったろうな、と想像します。
明日は父の日なんですね。
645さんの投稿から、お母さんありがとうと書いたカーネーションの造花を胸につけた小学生の頃を思い出しまた。何故あれが学校で配られたのか?今もよくわかりませんが、親に感謝する気持ちは、あの頃から出来ていきました。
うちでは大晦日と正月以外特別なことをする習慣が無く、父の日も母の日も何もしていなかった。クリスマスも弟が中学以上になったら特に何もしなくなった。
実家は自転車で一時間程度だけど、高齢で病気持ちだから行くつもりもない。私が未発症感染者ではないとは言い切れ無いし。
みね子は働き出した最初のお盆は帰らなかった。
国や実家を出て働いてるひとにとって、お盆やお正月は特別だった。
迎える方も楽しみで、滅多に会えない肉親には手紙を書いた。
メールなんかより遥かに心に響く手紙。
年賀状も昔より書くのは減ったが貰えば嬉しい。
心の触れあいは忘れたくない。
電話が普及して、馴れて、電話から聞こえる声だけでも嬉しいもんだ。
お父ちゃんが見つかった時、すずこさんがみね子に手紙を書きなさいと言った台詞が響きました。電話よりも手紙で知らせることがあの時代とあの衝撃的な事実を伝える手段。
手紙は後まで残ります。子どもが学校を卒業する頃にくれた感謝の手紙。引き出しにしまってあり、たまに読み返しています。
赤いカーネーションは今も苦手です。小3で生母が
慣れない土地に越して三か月しないで急死しました。 クラスで一人だけ母のいない子供でした。先生たちが気を使うのが鬱陶しかった。 一年半して新しい母が来た。最初はいろいろいざこざがあった。でも血は繋がらないが大切な母です。 コロナ渦で2月下旬会いに行くのを諦めた。この期間に母は誕生日で また歳をとり百迄後少し。軟禁状態が二ヶ月。今週からやっと外出できるようになった。買い物が大好きだが 公共交通機関はまだ使えないとの事。でも二ヶ月も めげることなく、📲の声は艶やかで明るかった。7月には会いに行きたいと思ってる。
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