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【戦国時代の武器のおねだん(丁)④】
『鉄砲編』
そして、戦国時代の戦場において最も印象深いのは、16世紀半ばから日本で急速に普及した鉄炮である。
織田信長をはじめ、多くの大名にとって垂涎の新兵器だったが、当時の鉄炮の価格を示す史料は残念ながらほぼ皆無である。というのも、16世紀後半になって実戦に用いられるほど鉄炮が普及してくると、いくつかの大名は職人を配下に抱えて自ら製造させたり、大名ではなく家来たちが自前で用意したりするようになり、彼らがどれくらいの費用をかけて調達しているかがわからないからである。
しかし、手がかりとなる史料もまったくないわけではない。天正9(1581)年に、小田原北条氏が配下の池田孫左衛門という人物に課した軍役を記した史料がある(『中世法制史料集』第5巻1013)。それによると、20貫文分の負担として「鉄炮侍」2人分が計上されている。
北条氏では、家来として抱えられた職人衆の日当が50文に設定されていた(『小田原衆所領役帳』)。戦時と平時を同一視することには問題はあるが、ひとまず双方とも同じ賃金だったと仮定すると、2人分の射撃手の1日当たりの手当は100文となる。兵卒の自己負担分は1ヵ月分が相場なので、上記負担も1ヵ月分と仮定すれば、狙撃手の人件費は合計3貫文となる。20貫文から人件費を除けば鉄炮の費用となるので、2挺で17貫文、1挺では8貫500文となる。
現代の価値にすれば、1挺当たり50万〜60万円と見積もられる。別の史料をもとに鉄炮の費用を検討した先行研究でも、おおよそこのあたりの金額が見積もられているので、ひとまずこれくらいとして無理はないだろう。
仮に大名が鉄炮をすべて用意することになった場合はどれくらい支払うことになるのか。数字は諸説あるものの、天正3(1575)年の長篠の合戦で織田信長が少なくとも1000挺の鉄炮を準備したとされているが(『信長公記』)、上記の単価によるならば、その費用は合計8500貫文、現代の価値にして5億〜6億円ということになる。当時の金銭感覚でも破格の費用を要したことは確かである。商人から購入するよりも、製造技術を持つ職人を抱える方がはるかに経費を節減できたはずなので、大名が職人を抱えようとするのは合理的選択だった。
以上を踏まえて兵士1人当たりの装備を見積もると、一式でおよそ10貫文(現在では60万〜70万円)程度、鉄炮を加えると20貫文(130万円前後)程度といったところになりそうである。もっとも、先にも触れた通りこれは基本的に家臣や個々の兵の自弁が原則だった。つまり大名が直接まかなったわけではないが、あくまで軍勢全体の経費として考えれば、1000人の軍勢にすると、現在の価値で数億から10億円程度の経費がかかったことになる。もちろんこれに兵糧が加わるので(兵糧を運ぶのは百姓たちだが、彼らは無償労働が原則だった)、経費はさらに膨らむことになる。
◎まとめ
・1挺(8貫500文)現代では50〜60万円
・兵士の装備一式で(10貫文)現代では60〜70万円
・鉄砲含むと一式で(20貫文)現代では130万円前後
・長篠の戦い1000挺(8500貫文)現代では5〜6億円
・1000人の軍勢全体のコストは現代では10億円
◎感想
私みたいな歴史音痴には『麒麟がくる』を観てからこういった調べものをすると流れが繋がって良い復習になります。
楽市楽座...
織田信長は金持ちだったから天下一歩手前まで行ったのではないでしょうか!?
一文字さん
【戦国時代の武器のおねだん】は川戸貴史氏の『戦国大名の経済学』からの引用なのですね!知らずに引用しておりました(汗)
私はこのような視点から検証するのが好きです🎶
染子さん
英語を使うのはキャラなのでお許し下さい(笑)
『NHKスペシャル』は録画しておりますので、観たら感想を投稿させて頂きますm(❁_ _)m
To be continued..........
すみません。まだNスペ確認していないのですが、村角灯さんに質問です。
軟鋼を作る技術が日本には無く100%輸入に頼っていたとの事ですが、日本刀製作の本三枚鍛えや四方詰めなどの鍛刀法で鍛造される刀身の核となる芯金は軟鋼ですよね。
この『軟鋼』と村角灯さんがご指摘の『軟鋼』は別の素材という事ですか?
マドモアゼル シャ
英語はいいです。
違う意味でいいました。これ以上は。それにしても、お金に興味がありますね☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆
ヒストリア?あたりで、信長は天下統一は目指していなかったと説明がありました。
Nスペ、流し見でした。スペインの目的は日本へのキリスト教布教の裏側に、半植民地化はなかったのでしょうか。
一番の疑問、「世界一の軍事大国」16世紀ヨーロッパはもっと軍事大国だと思いますが。種子島から伝来した銃、ポルトガル、スペインの方が軍事には長けていたと思いますが。
吉法師さん、考えを聞かせてくださいね。
「黄金の国ジパング」だからこそ輸入品の火薬や銃器の原料を大量に導入できたのかなあ。その代償として大量の金銀が海外に流出したことだろう。
24様
吉法師さんは菅原道真がこちらへの投稿が少なかった頃、太宰府天満宮に関するクイズ問題を出してくれて、場を和ませ、そこから投稿が徐々に増え、新スレへと漕ぎ着けました。言わば、助け人です。
彼は、柔軟な考え方をこちらのスレに吹き込むだろうと思いました。『いつも5歳児のようなドヤ顔のあなたが知らなかったとは迂闊でした』は、このスレが気に入って、これから常連さんになってくれるかもしれない吉法師さんがかわいそうです。
ここに書いたのを見逃したかもしれません。私も記憶にはありません。
IDから、あなたがどなたかは一目瞭然。あなたの役割は、大歓迎することだと思います。心に裏打ちされた知識や見識が心を打つと思います。
彼は昨日の俳句会にも来てくれました。できるかなあと言いながら、ユニークな、実にユニークな俳句を詠みました。約束を守る方だと思いました。
ドヤ顔など思いもしませんでした。寧ろ、その反対です。クイズも、全員正解としていましたね。もう来ないかもしれませんが、いらしたら、麒麟組に入るように導いてあげてくださいね。
よろしくお願いいたします。
💮お茶の間はみんな楽しくお茶飲むところ
ある方の川柳です。まさに吉法師さんは、こんな方だと思います。
吉法師さんが再び現れることを願います。
失礼いたしました。
皆さん、こんばんみ!(⊙ꇴ⊙)>
NHKスペシャル『戦国』、視聴済みました。
ん~正直、既視感は否めないかな~(^^;
あのバチカン所蔵の史料文献からの日本征服に関する引用文は『ドン・ロドリゴ日本見聞録』の一節と全く同じでしたが、あれは江戸時代のものですからね。
浪漫としては面白いと思いますが、第2弾の方が楽しみですね。
スペインのポルトガル併合が1580年。翌1581年に信長が光秀に命じて京都お馬揃え。そこに主賓客格で、イタリア貴族出自のヴァリニャーノ登場。お馬揃え後、信長不機嫌で魚が腐ってたと光秀を激しく叱責。ヴァリニャーノに鮒寿司だしたかは不明。
ヴァリニャーノが、ポルトガル人でもスペイン人でもないのは、イエズス会の何かの事情を反映してるのか?ポルトガルの南蛮貿易が。船主商人等の利益が主目的だった。しかし、スペインは、ポルトガルからユダヤ人を追放したため、彼らが移住したオランダアムステルダムが、スペインから独立。オランダとスペインとの間でポルトガルの植民地を巡る争いが激化した。という状況を背景に持っている。そのためスペインは日本との関係に植民地に関連するような領土を巡る政治的な目標を入れてきた可能性がある。
信長は最初ヴァリニャーノを非常に気に入ったと伝えられる。合理主義者同士で話が速かったからかもしれない。
しかも、信長には天下統一後の唐入りの誘いが南蛮系からあったという話もある。天下統一途上の論功行賞の報償のため領土拡大が必要というのも一理あるが、楽市楽座により、地域間貿易発展による経済成長を実感していた信長には、それが唯一の方法とは考えられない 。逆に唐入りし、国内戦とは異なる戦いの兵站確保が、船無し・火薬無しの日本に見通しがつかないことも信長には明らか。先ず貿易発展と情報取得優先の信長の発想の延長には、海外交易を発展させ、海外事情の情報を入手するための貿易船の入手があるが、スペインは拒否。
信長にも、南蛮貿易の背景にあるスペイン側の事情がわかり、互いに譲れない構造も明らかで、ヴァリニャーノと決裂。
結果として、天下統一に至った過程の全ての論功行賞を公正に行えない可能性が生じる。光秀ー長宗我部ー毛利ー義昭よりも、織田家ー三好ー秀吉を優先する方向を表明。それを知った、反信長勢力(義昭ー毛利ー本願寺(仏教)ー近衛前久ー朝廷) は、光秀を擁立。
鉄砲を沢山持ってても、スペインのポルトガル併合→オランダ・イギリス(プロテスタント)vsスペイン(カトリック)の植民地争い→東アジア情勢への影響
という世界史的な流れには、全く影響力のないのが世界有数の軍事大国日本の実態では?
一文字さん
軟鋼の話は 安倍龍太郎さんの 信長の革命と光秀の正義 からの受け売りです。そもそもの出典がどこか探ってみます。
タイ産 鉛 の話は、大航海時代の日本と金属交易 からの引用ですね。 鉛には4種類の同位体がありその比率から産地を特定できるという。
皆さん、おはようございます!(^^)/
村角灯さん、ありがとうございます。m(_ _)m
安倍龍太郎さんの著作ですね。わかりました。
鋼鉄素材は炭素含有量が高い程硬くなるのですが、炭素2%以下で軟鉄(軟鋼)になるといわれています。
ただ日本の刀鍛冶の実力は凄まじく、この炭素含有量を極限まで除去し、軟鋼よりはるかに柔らかい『包丁鉄』という状態も精錬出来ます。
安倍説は自分も初なので、ご紹介の本、読みたくなりました(^^)/
後程、安倍説とは別に私の知る限りの国産火縄銃製造についての情報も投稿させていただきますね。
村角灯さん、朝からありがとうございます。m(__)m
日本には大砲の技術は大丈夫だったんですか。
オスマントルコ帝国は難攻不落の東ローマ帝国のコンスタンチノープル要塞をウルバンの巨砲と言われる大砲で砲撃し攻略(1453年)。
その後も第一次第二次のウィーン包囲で(1529年、1683年)神聖ローマ帝国、ポーランド王国等のヨーロッパ諸国を圧倒、1538年のプレヴェザ海戦でもオスマン海軍はスペイン、ベネチア等のヨーロッパ諸国に勝利、1571年のレパント沖海戦で敗れるが優位は変わらなかった。
アジアでは明の遺臣鄭成功にオランダ軍が1661年に澎湖諸島ついで台湾南部のゼーランディア城を攻略されインドネシアにオランダ軍は潰走。
つまり、産業革命以前の欧州軍の軍事力は古代文明のインカ帝国アステカ帝国には圧勝できるが、オスマントルコや明には歯が立たないレベル。
で、日本は世界最強の軍事大国か。島原の乱では徳川幕府の老中・松平信綱がオランダ海軍に依頼してゴーテリング法で艦砲射撃を依頼。肥後藩の細川忠利は一揆の鎮圧に外国海軍の加勢を頼むのを批判している。
文禄慶長の役の秀吉側の鉄砲は銃身も長く明や李朝のものより優れていたが、大砲技術が劣っていた感があり、世界有数の軍事大国とは思えないんだが。
39はスレ主としてでなく、一個人として参加させて頂きましたので「白い鳩」のハンネで書きました。
【国産火縄銃製造について】
鉄の硬さは炭素の量で決まり、炭素含有量が多いほど堅くなります。
炭素含有量が2%以下のものを「鋼」
炭素含有量が0.2%以下のものを『軟鉄』『軟鋼』
炭素含有量が0.1%以下の鉄を『包丁鉄』
炭素含有量が2%以上のものを『銑鉄』『鋳鉄』『銑』(ずく)
と言い、炭素含有量が多いほど低い温度で溶けます。
日本刀は炭素濃度が低い(0.1~0.3%)軟らかめの鉄《心鉄》を、炭素濃度が高い(0.5~0.7%)硬めの鋼《皮鉄》で包む造り込みで製作されます。
日本刀に適した鋼に変える成分調整の工程は『卸し鉄(おろしがね)』と、それを均一化して精製し、皮鉄の素材に仕上げる『折り返し鍛錬』という二つの工程があり、『卸し鉄』は炭素濃度を0.5~0.6%に調整しますが、低炭素の鉄(炭素含有量0.1%以下の軟鉄、包丁鉄)に炭素を含める『浸炭』と、逆に高炭素の鉄(炭素含有量3~4%の銑鉄、銑)から炭素を除去する『脱炭 』という工程があります。
火縄銃の銃身となる炭素含有量の微少な鉄鋼素材はこの脱炭という工程で鍛造されます。
国産火縄銃は、近江・国友、和泉・堺および肥前・有馬が主要産地として知られ、中でも国友では鉄砲生産最盛期に70余軒の鍛冶屋と500人を超す職人がいたと言われています。
国友鉄砲鍛冶の銃の製造方法および銃身に用いられた鋼については、江戸時代に国友藤兵衛一貫斎が著した『大小御鉄砲張立製作』に記されています。
これは、従来秘伝として口承で伝えられてきた鉄砲製作の方法を簡潔に記したものです。
この中で銃身に用いる鋼原料としては、出雲・播磨のものが良く、次に備中・備後が良く、陸奥・仙台・安芸の広島はそ
の次、等といった記載があり、国友鉄砲鍛冶は銃身に用いる材料を厳選していたことがわかります。
【NHKスペシャル『戦国』感想~戦国日本は世界的な軍事大国といえるか】
結局、中世日本は中途半端な軍事大国だったという事だと思います。
鉄砲と陸戦兵力の精強さという点では、後にフィリピン総督のロドリゴ・デ・ビベロに『スペインの軍事力を持ってしても征服は不可能』と言わしめる程、充実していたのは間違いないでしょう。問題は海軍力です。
信長がサン・ファン・バウティスタ号の様な日本式のガレオン船を数十隻も保有していたら世界的な軍事大国だったと言えるかも知れません。
世界最強の陸軍を有しながら、海軍力は脆弱な規模で、もっぱら潜水艦(Uボート)戦術に依存していたナチス・ドイツの様なバランスを欠いた軍隊編制のイメージです。
39訂正。
× ゴーテリング法
○ ゴーテリング砲
ふと疑問が。
37で 一文字さんと呼びかけましたが、どこまでが姓でどこからが名前でしょうか。
一文字三郎が姓だったら 一文字さんではなく、一文字三郎さんと呼びかけるべきでした。
大阪大学理学部の教授で 文珠四郎 秀昭 という高名な研究者がおられます。 彼の場合、文珠四郎が姓なので、一文字さんの場合も 一文字三郎 さんと呼びかけるのが正しいのかな? と
近現代史は政治思想が絡むのでローカルルールでご法度が原則ですが純粋に軍事面のみなので。
ドイツのティーゲル1戦車(ケーニヒスティーゲル)はソ連のジューコフ元帥のT34号戦車に戦局終盤は勝てなかったのではなかったのですか。ドイツ海軍は大艦巨砲主義にこだわり、ビスマルク、ティルピッツに依存してましたね。航空兵力重視の日米の方が進んでいたのはその通りだと思います。
【大砲について】
この時代の大砲はいわゆる『大筒』と呼称され、短砲身で銃口が大きく、現在でいえば榴弾砲に分類されます。
短砲身の為、射程距離も短いのですが、大口径の為、装填砲弾も大きく、至近距離の標的を撃滅させる効果があり、発砲は前装式で砲口の先から火縄を伸ばし火薬に点火させる方式で、砲弾は金属製の球弾です。
功城戦や対船舶戦に使用されていました。
『和製フランキ砲(石火矢)』は速射性に優れたカートリッジ型の後装式砲で、国内では毛利水軍が瀬戸内海で織田方の九鬼水軍との艦隊決戦の為に艦船に装備した事が記録にあります。また九鬼水軍も『和製フランキ砲』を装備していました。
文禄慶長の役でも使用され、朝鮮での攻城戦で活躍しています。
『大鉄砲』という火縄銃を巨大化した携帯型の火砲もありました。
角度と火薬の量により3㎝砲弾を1km飛ばす事が可能でし、火縄銃と同様に火縄で砲身側面の薬皿に発火させます。
『大鉄砲』には砲身を長くして台座に固定したタイプもあり、文禄慶長の戦いでも投入されています。
一文字三郎直虎さん、大砲の専門解説ありがとうございます。知らなかったことが多くとても勉強になります。
ただ、堅固な城塞が多い欧州で使用されたオスマン帝国の大砲と比べて破壊力や飛距離はどうだったのでしょう。1588年のアルマダの海戦でスペイン・ポルトガル海軍を破った英国海軍、オランダ海軍の砲撃と比べた場合はどうか。
明・李朝連合軍も政権末期で1619年のサルフの戦いで後金(後の清)軍に惨敗するレベルでしたし。
白い鳩さん、ありがとうございます。m(__)m
ドイツ陸軍とソ連陸軍の精強さは戦車の性能だけでは単純に比較出来ませんよね。
軍事力の背景には大量生産を可能にする戦略物質や人的資源などの国力自体が問われますから。
私は中世日本の軍隊編制が陸・海のバランスを欠いていた事を例える意味に限定してナチス・ドイツの軍隊を参考にしただけです。
この時代の陸軍最強国はスペインやオランダ、英国ではなくオスマン・トルコ帝国だと思います。
戦国日本の陸軍力がこれら軍事大国と比肩出来るかどうかは詳細な情報を持っていませんが、少なくとも当時のスペイン人に、日本を軍事力で屈服させる事は不可能であり、デウスの福音を宣伝して民衆の心を征服するしかないと、認識させるだけの武力が存在していた事だけは、史料から伺えます。
サルフの戦いでの明軍は指揮命令系統が破綻した雑兵集団だったと記録にありますね。
村角灯さん、ありがとうございますm(__)m
一文字で大丈夫ですよ(^^)/
一文字三郎直虎は黒澤明監督の映画『乱』に登場する武将の名前です。姓は一文字、名は三郎直虎になります。m(__)m
すみません。またマニアックな連投をしてしまいました。。。(^^;
お許しを~m(__)m
「当時、日本は世界一の軍事大国だったのか。」というある方の投稿からでしたね。
私は当時の世界一の軍事大国はスペイン、オスマン帝国だったと思います。Nスペ、大丈夫かあ、とオンタイムで見た私は思いました。
1503年、フランスとスペインの間の戦い、チェリニョラの戦いで、スペインは1000丁の火縄銃、大砲を20門使用、フランスの貴族主体の騎兵隊軍中心部隊を撃退しました。スペインは、南米、特にメキシコ、今尚、銀の生産国世界二位を誇りますが、その財源力を常備軍維持に費やしていましたから、他を圧倒していたと思います。
結果、衰退の一途を辿っていったのか、詳細はわかりませんが。
1575年の長篠の戦いに先んじる事72年も前の戦においての事ですから、日本は寧ろ、軍事弱小国だったかもしれません。
兵士動員力はオスマン帝国が一番でしょう。スペインは、常備軍がいましたから、軍隊の鍛錬度からしても、日本とは比較にはならないと思います。
しかし、あらゆる観点から見ないとどこが軍事大国かは決められませんが、スペイン、オスマン帝国だと思います。また、中国は動員力からしたら一番でしょう。朝鮮は当時、いや、もっと前から兵役がありました。あなどってはいけないと思います。当時、朝鮮は李王朝?は中国の属国状態、がやられそうになったら、明は膨大な数の兵士を送ると思います。
また、火縄銃だけではなく、大砲、または大砲もどき兵器もスペインは早くから所有していました。想像するに、中国辺りも⁉️
航海術が日本は劣っていたと思います。
地つづきのヨーロッパ、オスマン帝国、中国は兵器の交流、開発も進んでいたと思います。日本が外国と初めて戦ったのは、元寇ですか。社会科資料集の戦いの様子を思い出していますが、火薬玉のようなものを元は使ってはいませんでしたか。日本でしたか。
Nスペは一つの課題提起として見て、面白かったです。
長文となり、また、皆様とは比較にならない内容のもの、失礼いたしました。
一文字三郎直虎さんが謝罪されることは何もありません。
私の質問に丁寧のお答えくださった誠意あるもので、私はとても感謝しています。
私のつたない軍事知識に平易な言葉で答えて下さいました。ありがとうございます。それと私の言葉足らずの面のフォローもして下さいました。
私の強いのは昭和以降の外交史ですが、これは絶対止めた方がいいですね。論争になれば勝った方も負けた方も嫌な気持ちになるだけだと言うのが体験的な認識です。近現代史は政治論争になるのでローカルルールでご法度ですし。
これからも楽しくここで戦国織豊から江戸初期の話を聞かせて下さい。私は知識がそこまでなくロム専ですが誠実に読ませて頂いています。
染子さん、こんにちは(^^)/
個人的にはいくつかのパートで若干の既視感は否めませんでしたが、NHKスペシャルはかなり良い線だったと思いますよ。
大航海時代のスペイン人が日本の軍事力をどの様に評価していたか。短期間で命中精度を格段に進歩させた火縄銃製造の技術革新が当時のスペイン人から脅威と見なされていたという話はドン・ロドリゴの報告にもある通りです。
文禄慶長の役は実質的に九州のキリシタン大名中心の日本遠征軍による李氏朝鮮民衆の大虐殺です。
力の差は歴然でした。
日本側の失敗は、補給兵站問題と厳寒の気候を無視した無謀な作戦だった事に尽きます。
日本側の戦死者の内訳で圧倒的に多かったのが非戦闘死、つまり病死と餓死です。
これが後の関ヶ原の結果へとつながります。
韓国の歴史教科書はこの戦い以前と以後の2冊に分けられています。
白い鳩さん、とんでもないですよ!(^^)/
白い鳩さんの世界史の知識と見識は私のお手本です。
近現代史などは第二次世界大戦以外は私がロム専になるしかありません(^^;
特に白い鳩さんのホロコーストに関するお話は、とても勉強になります。m(__)m
一文字さん
お元気そうで何よりです。お茶の間の星ですから。無理しないでね。
軍事力、今現在も。兵器一撃で一つの国がなくなるものを所有していることあり。
また、強くても死者数からも考えなくては。
今現在ですらそうですから、当時の世界一の軍事大国、スペインかオスマンか中国かは、今後一文字さんが調べるとして、、、。
一つ、シルクロードを忘れてはいませんか。この交易の道、ここから、いろいろな兵器の交流もあったかと思います。
私はいろいろな事を考えるとき、太平洋に浮かぶ島国日本、これをまず考えます。隣国と接している日本ならば、戦い慣れ、新しい兵器の取り入れはもっと早かったと思います。
私も、Nスペは必ず見ますが、多方面にわたり、はなしが及び、ある意味、課題提起の番組として見ています。
ところで、今日午後3時から、歴史秘話ヒストリア、信長焼き討ちの新事実‼️があります。再放送。見たかな?まだならば、録画するなり、見てくださいね。私は見ましたが、かなりNスペよりは、頷ける内容でしたよ。
マニアックサイコーだと思いますよ。3月3日から、一文字さんのマニアックには、目が点でしたからね。
土日のクイズ、句出づ、来てくださいね。43キュンが
寝ないで問題を作っているようです。私の要項は、昨日午後に書いてあります。スレ主様、すれ違い、申し訳ございませんです。
💮お茶の間はみんなで楽しくお茶飲むところ、
だと思います。
失礼いたしました。
軍事力は前線の戦力だけでなく、後方支援なども含めたもので判断しなければならない。前線に割く兵力はせいぜい1割程度で、後方支援などに9割を当てるようにしなければ短期決戦でない限り必ず破綻する。昨日の放送で「秀吉の中国大返し」は信長が後から来ることを見越して道路や休憩地を整備してあったことが短期間で駆け付けることができた理由だと紹介していた。
第二次大戦中のドイツも日本も後方支援を軽視したことで敗北の道を歩むことになった。国力に見合わない戦争に突入した時点でこうなることは分かっていたはずだが。
染子さん、ありがとうございますm(__)m
NHKスペシャルは私も必ずチェックしています(^^)/
映像のピュリッツァー賞であるピー・ボディ賞、世界のテレビメディアコンテンツを顕彰する最高峰のコンペティションである国際エミー賞、毎年ドイツで開催されるワールド・メディア・フェスティバル等でコンスタントに受賞履歴のある日本のドキュメンタリー番組の最高峰ですから。
一文字さん、染子さん
本能寺を語る時 TV 番組ではどうしても避けて通りたがる部分があります。
一つ目は 朝廷
二つ目は カトリック
神聖で犯すべからざる領域だからでしょう。 今まで大河でも取り上げられることはありませんでした。
NHK Special は二つ目のタブーに挑戦したのではないでしょうか?
私がここまでできるのかと驚いたのはそういう意味でした。
この2点に関して既知の事実を並べるだけで、視界は広がるのです。
村角灯さん、確かにそうですね。
カトリックの総本山から日本の戦国大名の名が記された文献が公開されただけでもドキュメンタリーとしてのインパクトは大きいですし、『我々には日本を支配する権利がある』という宗教権威的独善で宣教師達が政治的な諜報活動を日本各地で行っていたという事実は、カトリックの宗教的なイメージにも抵触しますから、タブーを破ったと言えるかも知れません。
一文字さん
いろいろと見ているし、その上、博識、いつも、その考察は、私達の胸驚かせます。もしかして、O氏?O氏の仕事、手伝ったら⁉️
村角灯さん
同感です。聖域に足を突っ込みました。
今後、ドラマでも、天皇役本郷奏多さんで、出演しますね。信長との蜜月関係、7回忌法要で詠んだ天皇の句が涙目を誘います。
しかし、信長を語るとき、カトリック、天皇など語らなくてはならない存在、ドラマを彩る存在と、私は見ています。本能寺の変は、彼らが黒幕はないかと思います。そうした場合の反響はものすごいものとなりますが、定番の、しかし、光秀を悪者にしないように万全の配慮をして、本能寺の変が
描かれると予想します。
納得の本能寺の変とでも言うのでしょうか。あれを光秀、仕方ないな、とするには、何が発端か、ここに注目がいくと思います。NHK出版の大河ドラマ、には何となく書かれていました、最近見つけましたが、詳細には触れていません。
また、いつから殺意が芽生えたかも、私は興味があります。秀吉の大返し、この点も不思議を感じています。
なぜか世界史の教科書ではジェスイット教団と書かれるイエズス会が家康に英国人のウィリアム・アダムスとオランダ人のヤン・ヨーステンの処刑を要求したのはあまり知られてませんね。欧州ではカトリックとプロテスタントの宗教戦争の側面もある三十年戦争の頃の話です。
染子さん
本郷奏多さんは天皇役でなく関白役、近衛前久です。
見てしまったので、ごめんなさい。
教科書は何時も記載内容が同じとは限らないが、私が中学生の時の歴史の教科書には
「スペイン、ポルトガルといったカトリック系の国とイギリス、オランダといったプロテスタント系の国は日本との貿易でも激しく争っていて、イギリスの商人は「スペインとポルトガルは布教にかこつけて日本を植民地にしようとしている」と秀吉に入れ知恵した」
という意味のことが書かれていた。
愛美ちゃん
43キュン試験でやりましたね。近衛氏。
皆様、すみません。
63さん こんにちは。 そこまでは書かれていますね。
しかし、イエズス会が
・日本を利用して明を征服しようとしていた
・布教の見返りとして兵器貿易を利用していた死の商人だった
・日本人を奴隷として集め、マカオを中心に売りさばいていた。
というような事は書かれていませんね。
1588年だと思いますが、秀吉が
「明を征服してキリスト教国にする」と言ったとか言わなかったとか。
NHK Specail 戦国の第1回は 信長 vs スペインでした
第2回は 秀吉 vs スペイン
家康 vs オランダ
になるのでしょう。
文禄の役の講和の為に明国から使者が来た時の歓迎の様子を描いた絵に宣教師が3人描かれている。
このあたりから入っていくと想像しています。 外していたらすみません。
村角灯さん、勅使河原宏監督の映画『利休』で豊臣秀吉(山崎努)が拝謁にきた伴天連一行に対して『日本の政はここにいる秀長に任せ、余は朝鮮と唐を征服し、彼等の悉くをキリシタンにするであろう』と嘘か本気かわからない台詞を吐くシーンがありましたね(^^;
今夜、10時からのEテレ、知恵泉、「千利休〜明日をもわからぬ戦国大名の心をつかんだ」をやりますよ。
チェック済みだとは思いますが、一応、お知らせいたします。
一文字さん
調子良さそうで、良かったあ。しかし、体調を整えてくださいね。お茶漬けさらさらでは、、、。
駿河は台風のような2時間ほどでした。寝ていましたが。皆様の地域はいかがですか。十分に注意してくださいませ。
染子さん、こんばんみ!(⊙ꇴ⊙)>
いつもありがとうございますm(__)m
きゅうりの浅漬け袋もみもみ実践してますよ(^^)
きゅうりは大好物なので、この時期は欠かせません。
そろそろ西瓜も食べたいな。(^^;
白い鳩様 こと スレ主様 こんにちは
漂着し半死反生のウイリアム アダムスとヤンヨーステンの処刑をイエズス会が要求したんですね。
プロテスタントとカトリックという違いの故に。
歴史にもしは無いのですが、家康が鎖国政策を採用し通商をオランダと中国のみに制限したのは正解だったのか? と考えてしまいます。
明治期に大きな代償を払う羽目になりますが。
村角灯さん
一文字三郎直虎さん
白い鳩さん
染子さん
皆さまの博識と歴史への洞察力、さらに具体的な事例を引いての説明力・記憶力素晴らしいです。NHKスペシャル見られなかったのですが、テーマが信長対スペインとすると、お馬揃えが、スペイン=ヴァリニャーノ=イエズス会に示威するための観兵式で、裏で信長とスペインの間でなんらかの交渉(自分の推測では中国進出の要請に対し商戦ないし軍艦の要求)が進んでいて、決裂ないし本能寺の変の頃への延期があったのではと思いましたが、お馬揃えはトピックになっていましたか?
またフロイスがまとめ報告する詳細な情報収集の方法についても不思議に思っていますが、それについては何かありましたか?
村角灯さん、個人の意見なのでこのハンネで返事を書きますね。
今はカトリックもプロテスタントも仲良く友好的で共同訳聖書を出してますが、戦国時代は欧州も血なまぐさかったみたいですね。
フランスのカトリックのプロテスタント弾圧の聖バーソロミューの虐殺も1572年で中世の出来事ではありません。ドイツは先述したように1618年からの三十年戦争で国土は荒廃。発端は宗教対立からです。
宗教の他に当時のスペイン・ポルトガルと英国・オランダの険悪な関係も影響していた感じがしますね。
43さん、こんばんは!(^^)/
NHKスペシャル『戦国』はこの後、0時30分から再放送されます。
一応、番組内容をご紹介しますと、バチカンのイエズス会ローマ文書館に所蔵されている来日宣教師達の機密文書から、宣教師達が日本の軍事力を利用したアジア征服という壮大な計画に沿って活動していたとする説を再現ドラマ風に描いています。
その中で織田信長に謁見し、キリスト教の布教と引き換えに軍事物質の支援を持ち掛けるのがイエズス会の日本布教長=フランシスコ・カブラルです。彼が信長に提供したタイの鉱山から産出される鉛が長篠の戦いにおいて信長鉄砲隊の殺傷力の高い銃弾になりました。
番組は信長の天下統一を支援する形で日本人全体をキリスト教に改宗させるという宣教師達の野望を機密文書から読み解いていきます。
スペインのイグナシオ洞窟教会の壁面にキリスト教の布教に貢献した人物として、フランス国王、スペイン総督と共に描かれていたのが高山右近。
イエズス会にとっても仇敵である本願寺勢力を駆逐する為に、グネッキ・オルガンティーノは高山右近に織田信長に協力する様に働きかけ、摂津の高山右近とキリシタンの軍勢が信長軍に加勢し、本願寺勢力を一掃します。
アレッサンドロ・バリニャーノは日本の軍事技術の急速な進化に注目し、日本の軍事力が中国大陸の征服に利用出来るというスペイン本国への機密文書を紹介する場面で登場しますが、バリニャーノが信長に謁見する場面はありませんでした。
ガスパル・コエリョが朝鮮出兵にのぞむ豊臣秀吉に対して、スペインの軍船提供を持ち掛けるシーンはありました。(^^;
一文字三郎直虎さん
ありがとうございます。
見てみます。
一文字三郎直虎さん
ありがとうございました。見といてよかったです。
弾薬と鉛の話は出てましたが、火薬については何も触れてませんでしたね。武田軍が鉄砲をどう入手し、火薬はどうしてたかは全く触れてなかった。
やはり、フロイスの報告書の背景には、
宣教師が構築した強力な情報網があったのですね。
時系列がぼかされてましたけど、本能寺の変以降の光秀の同盟依頼は、宣教師側に読まれていて、先に(本能寺の変以前)手を回されていた。その反光秀側で高山右近がかなり重要な動きをしていただろうということは出てましたね。
石山本願寺の戦いも、仏教的なネットワークと宣教師・キリシタン的なネットワークを背景に持つ、全国を巻き込んだ戦いだったのかとも思います。
カブレロの在任期間も説明がないから、バリニャーノとの関係も、ポルトガル併合が信長にどう影響したかも、よくわからない描き方だった。
全体に印象的な見出しを並べて次々に飛び移っていくようで、マニアではない普通の人が一度見ても、イエズス会が世界征服計画を持ち、早くから信長に目をつけていたが、最終的に信長はイエズス会の思惑通りには動かなかったという印象が残るだけでは。
でも、国際動静を踏まえて、信長と本能寺の変の背景にアプローチするようになってきたのは歓迎です。
それにしても、一文字三郎直虎さんの正確で的確なまとめ本当に参考になりました。どうもありがとうございました。
おやすみなさい。
皆さん、こんにちは!(^^)/
43さん、昨晩の投稿ありがとうございました。m(__)m
NHKスペシャル『戦国~激動の世界と日本』ご視聴頂けて良かったです。(^^)
今日はアジアの中の戦国日本を軍事的観点から、この番組の終盤でも紹介されていた豊臣秀吉の朝鮮出兵『文禄慶長の役』を通しての考察に挑戦してみたいと思います。
ご承知の通り、『文禄慶長の役』は16世紀における東アジア最大の国際戦争で、その後の地政学的な地殻変動を東アジア全域に及ぼした出来事であり、日本はその戦争当事国であるにも関わらず、一般的な認識は決して高くはありません。
これには戦争当事国の民族感情に根差した政治的な背景や事情があるのはもちろんだと思いますが、今回は戦場となった李氏朝鮮側と朝鮮半島に派兵した明国(中国)側の史料文献とルイス・フロイスの日本史を参照しながら、項目別に投稿させていただきたいと思います。
【文禄慶長の役についての考察~李氏朝鮮と日本の兵器・戦術編】
李氏朝鮮軍歩兵の主力武器は日本の半弓に相当する弓、或いは短弓で、その最大射程は120m程度であり、日本の弓の最大射程300mの半分以下だった。
また李氏朝鮮にも火器は存在したが、旧式の大砲に分類されるもので、銅製で威力が低かった。
対馬の宗義智が1589年に使節として朝鮮を訪れた際に進物として火縄銃を贈ったが、朝鮮国王はそれを軍器寺に下げ渡したのみで、李朝は開戦前にこの新兵器の潜在力を見抜くことができなかった。
李氏朝鮮の宰相・柳成龍が著述した【懲毖録】には、
「《日本軍の》火縄銃の遠くまで発射する力と命中させる手際とは、弓矢に数倍する。とても対抗できない」(東洋文庫版283頁)とある。
また同書に、尚州での両軍の戦闘においては実射程が100mに満たない朝鮮の弓は日本軍に届かず、開平地の戦闘では日本の火縄銃のアウトレンジ射撃で一方的に損害を被ったことが記されている。
ルイス・フロイスの【日本史】には、李氏朝鮮軍の装備に関して、「手榴弾」「鉄製の兜」「丈夫な皮製の防具」「銅製の小型砲」「矢をつめて発射する射石砲」などの記述が見える。
李氏朝鮮軍の防具に関して【懲毖録】の記録によれば、
「賊《日本軍》は槍や刀を巧みに用いるが、我々朝鮮軍にはこれを防御することの出来る堅甲が無いために対抗できないでいる。」とある。
また【懲毖録】には、臨津江における朝鮮軍の敗北に関して
「朝鮮の軍士たちは敗走して川岸に来たものの渡ることができず、岩の上から川に身を投じたが、それはさながら風に乱れ散る木の葉のようであった。まだ川に身を投じていなかった者には、賊《日本軍》が後ろから長刀を奮って斬りかかったが、皆、這いつくばって刃を受け、敢えて抵抗する者もなかった。金命元と韓応寅は、川の北から遥かにこれを眺め、気力を喪失してしまった。 」とある。
竜仁における日本軍と朝鮮軍との接触について述べた記事には、
「日が暮れ、賊は、光彦らの緊張がややゆるんだのを見て、白刃をきらめかせ大声をあげて突進してきた。あわてて馬を索して逃げようとしたが間に合わず、みな賊に殺されてしまった。諸軍はこれを聞いて恐れおののいた。翌日、賊は我が軍が怯えきっているのを察知し、数人が刃を揮って勇を誇示しながら突進して来た。三道の軍はこれを見て総潰れになり、その声は山崩れのようであった。打ち棄てられた無数の軍事資材や器械が路を塞いで、人が歩行できぬほどであった。」とある。
他に「我が軍《朝鮮軍》は、賊がまだ山の下にいると思っていたのに、突然一発の砲声が響き、四方面から大声で呼ばわりながらとび出してくるのがみな賊兵《日本兵》であったので、仰天して総崩れとなった。将士たちは、賊のいない処に向けて奔走したところ、悉く泥沢の中に落ち込んでしまった。賊が追いついて、まるで草を刈るように斬り倒し、死者は数知れなかった。」という記述もある。
ルイス・フロイスの【日本史】には、
「朝鮮人は頭上に振り騎される日本人の太刀の威力に対抗できず、日本軍はきわめて計画的に進出し、鉄砲に加え、太刀の威力をもって散々に襲撃したので、朝鮮軍は戦場を放棄し、足を翼のようにして先を争って遁走した」という記述がある。
1790年に朝鮮で編纂された【武芸図譜通志】には、
「我が国《朝鮮》は、海の外に偏っていて、古くから伝わるのは、ただ弓矢の技芸ひとつがあるだけです。剣と槍に至っては、ただその道具があるだけで、捜してもそれらの習得に用いる方法はありません。 馬上一槍などといっても、試場で用いられたことがなく、その使い方も詳細に揃っていません。そのため、剣槍は、その武器自体が放棄されて久しいです。 倭と対陣すると、倭はたちまち決死の突進をしてくる。我が軍《朝鮮軍》が槍を持ち剣を帯びていようとも剣を鞘から出す暇がなく、槍も切っ先を交えることができず、皆凶刃によって悉く血を流す。すべて剣や槍の訓練法が伝わらなかった為である。」とある。
また【朝鮮王朝実録】によれば、朝鮮軍は、朝鮮側に投降した日本兵から、日本式の剣術を学んだという記述がある。
一方、朝鮮水軍は、高麗時代から対倭寇を目的に整備され、訓練も行われており、旧式ながら火砲を多く装備していた。
朝鮮水軍は板屋船という日本の安宅船に相当する大型船を用いた。
有名ではあるが実体不明の亀甲船も、この板屋船を改造したものといわれる。
他に補助艦船として中型の挟船、小型の鮑作船がある。
朝鮮水軍は火器や弓を使っての遠戦指向だったが、朝鮮の火砲は射程が64m-160mと短く、更に不安定な海上の船の上から撃つとなると殆ど目の前まで接近しなければ砲弾を命中されられず、朝鮮の艦隊が日本船からの火縄銃・弓矢などによる反撃の射程外から日本船を撃破できたわけではなかった。
朝鮮水軍が兵数で圧倒的に有利であった閑山島海戦においても交戦距離は100mに満たない距離で戦われている。
また、朝鮮の火砲は、鉄弾、石弾を複数込めて散弾の形で使うこともあったが、基本的には火箭という火矢を撃って敵船を焼き討ちすることを主眼としていた。
これに対し、日本の水軍は大型の安宅船が一部の上級指揮官の乗船などに限られ、中型の関船や小型の小早による機動性の高い戦闘を主戦法とし、接舷切り込みによる白兵戦指向で、可能であれば敵船を鹵獲する。
この戦いでの日本水軍の主な任務は食料や兵員の輸送である為、火力装備は脆弱で、海戦においては焼き討ちを主眼とする朝鮮水軍が優位でした。
【文禄慶長の役についての考察~明軍編】
明軍歩兵の装備は、弩弓、剣、槍、大砲、火縄銃、煙幕弾、手投げ弾など。
開戦当初、日本軍は最大射程500m以上で貫通力のある火縄銃の集中運用によって圧倒的優位に立つ。
日本の火縄銃の用途は、西洋式の戦列歩兵による弾幕射撃とは異なり、狙撃型であり、射撃開始距離も1町=約109m程度であったとされるが、朝鮮においてはより遠距離からの射撃戦となり、遠距離射撃による命中精度低下を補う為、一斉射撃も行われた。
しかし、戦争の末期になると朝鮮と明も鹵獲した日本製火縄銃で対抗する様になる。
明国は対満州女真族戦用に整備された騎兵の精鋭部隊=馬軍を大規模投入するも、戦場となった朝鮮の地形は山地が多く、騎兵の突撃に適した平地が少ない為、日本の長射程の火縄銃に対して圧倒的に不利であり、また、朝鮮には数万の軍馬を養うのに必要な草地も乏しく、度々、馬疫が発生し、夥しい数の馬匹が死んだ。
李氏朝鮮軍の騎兵も対満州女真族戦用に北辺に配備され、乱戦用に殻竿と槍を装備して、遠距離戦用に弓矢を装備していた。しかし、朝鮮騎兵部隊は開戦当初の忠州の戦いで日本の歩兵の攻撃の前に全滅してしまう。
日本軍の騎兵は槍や馬上で扱えるように小さく設計された銃を装備している場合もあったが、日本国内の戦闘において、銃の集団射撃に対する騎兵の脆弱性を経験していた為、騎兵の割合が低く抑えられた軍編制となっていた。
●日本刀に苦戦した明軍
明軍と日本軍の大規模な衝突となった『碧蹄館の戦い』を記した【朝鮮王朝実録】には、
「天兵《中国兵》短劍、騎馬、 無火器、 路險泥深、 不能馳騁、 賊《日本軍》奮長刀、 左右突鬪、 鋒銳無敵。」
という記述があり、また朝鮮の【懲毖録】には、
「李如松提督が率いていたのは皆北方の騎兵で火器を持たず只切れ味の悪い短剣を持っていただけだった。一方賊《日本軍》は歩兵でその刀剣はみな3、4尺の切れ味無比のものだったから、衝突激闘してもその長刀を振り回して斬りつけられるので人も馬も皆倒れ敢えて立ち向かうものはなかった。」とある。
日本軍による南原城陥落についても、同じく【懲毖録】の中で、
「日本兵は、城外にあって二重、三重に取り囲み、それぞれ要路を守り、長刀を奮って、やたらと切りつけた。明国軍は、首を垂れて刃を受けるのみであった。たまたま月が明るく、脱出できた者は何人もいなかった。」と描写されている。
日本刀は宋の時代に中国へ輸出されていたが、軍隊や民間で倭刀及び倭刀術が広く用いられるようになったのは明代からで、明では後期倭寇の頃から、日本兵=倭寇の日本刀・日本式剣術に苦しめられていた為、明軍では日本式の刀や日本式の剣術が武将の戚継光や学者の茅元儀らによって研究され、軍に採用されていた。中国は多くの日本刀を輸入し、日本刀を模した刀も製作された。
戚継光の著作【紀効新書】には、
「此は倭が中国に攻めてきた時わかったことである。彼らは舞うような歩法を用い、前方への突進力は光が閃くようで我ら明の兵は気を奪われるのみだった。倭はよく躍動し、一度動き出せば丈あまり、刀の長さは五尺なので一丈五尺の間合でも攻撃される。我が兵の剣では近づき難く、槍では遅すぎ、遭遇すればみな両断されて殺される。これは彼らの武器が鋭利であり、両手で振れる強力で重い刀を自在に用いている為である。日本人には遠くからの鳥銃が有効である。だが日本人は全く臆せず攻めたり刺したりできる至近距離まで突っ込んでくる。兼ねてよりこの銃手が弾を込める間に時間を取られて接近を許すことが多い。その勢いを止められない。日本人の刀捌きは軽くて長く接近を許した後の我が軍の銃手の動きは鈍重すぎる。我々の剣は銃を捨てて即座に対応する為の有効な武器ではないのだ。それゆえ我々も日本式の長い刀を備えるべきだ。」とある。
1790年に朝鮮で編纂された【武芸図譜通志】には、中国の史料を引用する形で、
「日本刀は倭寇が中国を侵したときに初めて見られるようになった。彼らがこの刀を手にして舞うと光閃の前に、我が兵たちは気を奪われ、倭人は一丈余り一躍し、遭遇した者は両断された。これは刀が鋭利で、しかも両手で使用するので力をこめられるためだ。今日でも単独で用いては防御できない。ただ鳥銃を兼用すれば防御可能で、賊が遠ければ鳥銃を発射し、近ければ刀を用いる。」
「日本刀は極めて強く鋭く、中国刀では及ばない。(中略)、倭賊は勇敢だが愚かで生死を重視しない。戦いのたびに三尺の刀を手に舞いながら前進してくると防ぐことができない。」とある。
●明軍の兵力について
文禄の役においては、祖承訓率いる5,000人、李如松率いる43,000人が参戦し、さらに碧蹄館の戦い後に劉綎率いる5,000人が増援として新たに到着した。
ルイス・フロイスは、平安城を囲んだ明軍の兵力を伝聞として「少なくとも20万」と記載している。
慶長の役については、最大動員となった慶長3年(1598年)9月の蔚山・泗川・順天の三方面同時反攻の際の兵力を、【宣祖実録】は水軍を合わせ92,100人とし、また朝鮮の史料【燃藜室記述】では両役を通じての明の動員数を221,500余人と記している。
『文禄慶長の役』について、明国側の正史【明史 朝鮮伝】の記述では、
『豊臣秀吉による朝鮮出兵が開始されて以来7年、明では十万の将兵を喪失し、百万の兵糧を浪費するも、明と朝鮮に勝算は無く、ただ関白が死去するに至り乱禍は終息した。』とあります。
明では『文禄慶長の役』での朝鮮半島への派兵を、寧夏の『ボハイの乱』、播州の『楊応龍の乱』と合わせて『万暦の三大征』と呼びます。
【明史 王徳完伝】によると「寧夏用兵《ボハイの乱》、費八十余万、朝鮮之役七百八十余万、播州之役《楊応龍の乱》二百余万」
また【明史 陳増伝】には
「寧夏用兵《ボハイの乱》費帑金二百余萬。其冬。朝鮮用兵、首尾八年、費帑金七百余萬。二十七年、播州用兵《楊応龍の乱》、又費帑金二三百萬」
とあり、万暦の三大征の中でも『文禄慶長の役』が『ボハイの乱』と『楊応龍の乱』とは比較にならないほど財政上に大きな負担であった事が記されています。
これらの膨大な軍事費の支出と戦死者を出した事と、皇帝万暦帝が明の国力を食い潰した事が、17世紀前半の満州女真族の台頭と明の急速な弱体化の重要な原因となったと考えられています。
長文の連続投稿お許しください。m(__)m
今回はこの二つの投稿だけになります。またの機会に戦場となった朝鮮半島の被害の実態と日本側の被害の実態をまとめてご紹介させていただきます。
一文字さん
素晴らしい考察と文章力、幾つかの文献からの史実を一つにまとめて、読み応え、ありますね。
今日、夏風邪ひいて早めに寝ますから、明日ゆっくり読ませていただきます。
🔶明の都は咸陽ですか。当時の朝鮮の都は平壌⁉️朝鮮は国内の大きな政治、行事をを行う時、明にお伺いに行っています。
🔶昨日、話題になった、当時の日本が世界一の軍事大国は???ですよね。
1、ならば、どこが総合力で一番の軍事大国だったと思いますか。
2、即答で、第7話、京から帰った光秀が帰蝶の信長への輿入れを勧める回。
駒は、光秀家臣の藤田伝吾の子供達に、ある遊びを披露してあげます。さて、何だったでしょうか。19時まで待ちますね。全て録画してあるだろうから、記憶力でいっちゃってくださいね。
いつもながら、麒麟愛、半端ないですね。感動にも似た尊敬の一言ですよ。
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