多様性という言葉だけが独り歩きしているような気がする。
私が見たNHKのドラマで覚えてるのは「弟の夫」と「プリズム」詳しい内容は書きませんが、決して趣味的な内容ではなかったです。
もし身近に、このような事があったら家族として友人として、受け入れられるのだろうかと考えてしまいました。
LGBTQという表現も今は、アロマ・アセクも含めて「ソジー」と言うみたいですね。どんどん表現が変わっていく…追い付けないなあ…
ポリアモリーという概念を初めて知った。
複数の人に同時に恋愛感情を持つ人のことで、対義語はモノアモリー。
モノアモリーは1人の人にしか恋愛感情を持たない人のこと。
ポリアモリーが浮気や不倫と違うのは、全員の同意を得ての誠実な関係ということらしくて。
で、ポリアモリーを描いたドラマってある?と検索してみたら、テレ東深夜ドラマの「私と夫と夫の彼氏」が出てきた。
配信ドラマで「彼女はたくさん好きになる」というのもあったけど。
日本のドラマで恋愛を描くとき、この人の相手は誰?という話が一般的で、浮気や不倫も話によく出てくるし、2人の間でどちらを選ぶか、というのも、よくあるパターン。
考えてみたら、これって全部、モノアモリー目線での話で、そういう話ばかり何十年と作り続けてたのが日本の連ドラ界。
ドラマの影響だけじゃないと思うけど、一夫一妻制に感化され続けてきた感覚が、ポリアモリーの人を悩ませたり、ポリアモリーを理解しにくくしてるのかもしれない。
同時に2人の人を好きになる話なんて、それこそ山のようにあるし、妻や夫を愛しながら別の人にも惹かれていく話もよくあるパターン。
でも、そういう話の展開としては、どちらを選ぶかストーリーになったり、すったもんだストーリーになる。
確か、昔の人で、夫と愛人との3人の共同生活をしていた著名な女性がいたはずなんだけど、名前が思い出せない。
その人達は、ポリガミー(ポリアモリーの実践者)だったんだろうか。
ポリアモリーの言葉自体は、自分が知らなかっただけで、2011年頃から使われていた言葉らしい。
「私と夫と夫の彼氏」のここの本スレをざっと読んだけど、どこにもポリアモリーに触れた感想らしきものはなかった。(自分はチラ見しただけなので、内容はよく分からない)
出演者で、ポリアモリーの伊奈周平役を演じた本田響矢さんは、ポリアモリーという言葉を出して公式頁にコメントを寄せてるのに。
きっと、ポリアモリーの人は世の中にいっぱいいるんだろうと思う。
でも、それを圧し殺して生活していたり、浮気や不倫や遊びで片付けられてしまってるのかもしれない。
たかがドラマ、されどドラマ。ドラマは世相を映す鏡でもある。
ゲイやビアン、トランスジェンダー、アロマンティック、アセクシャル等だけでなく、もっと多様な恋愛観が、ドラマの中だけでも一般的なものになってほしい。
そんなところから、世間の理解が始まるのかもしれないし。
夫と愛人と暮らしたのは岡本太郎氏の母の岡本かの子さん。瀬戸内寂聴さんが「かの子繚乱」という小説を書いてました。
夫の他に恋人がいたら最高じゃん!と思うよ。本音はね(笑) 若いつばめという言葉も昔からあるけど、昼ドラ向けの設定でしかなかったような気がします。
岡本かの子情報ありがとうございます!
岡本かの子さんの奇妙な夫婦生活を色々調べてみたんですが、彼女が好きだったのは、もしかして自分だけだったんじゃないだろうかという気もしました。
いくら何人もの人に愛されていても、それが終わると宗教(仏教)に救いを求めてしまってるのは、どこか満たされないものがあったからでは、なんて勝手な推測ですが。
旦那さんの岡本一平さんも凄い。結婚してからの放蕩生活でかの子を苦しめた贖罪としてそういう生活をしていたようですが、もう他の女性にもかの子にも指一本触れないと宣言する夫。
そんな夫がいたら、かの子としては次々愛人を作るより他なかったかもしれない、まさかずっと夫を試していた?嫉妬させようとしていた?複数の愛人を持ち、その愛人にも夫にも愛されることが自分の存在価値だった?とかも考えてしまいましたが、ご本人達にしか分からない壮絶な関係だったように思います。
ポリアモリーとはまた少し違うような気もしますが、ポリアモリーの恋愛観を考えていてずっと疑問に思ってるのが、ポリアモリーの人達は、嫉妬とか独占欲とかどうなってるんだろうということ。
そういうのを感じないのがポリアモリーなのかな?分かりませんが。
実際のポリアモリーの人が作ったポリアモリー目線でのドラマとか、見てみたい気がします。
ついにNHKの時代劇でも、江戸時代のトランスジェンダーのお殿様と小姓の純愛、周りの人も自然に受け止めそれを温かく支持する、というテーマが出てきましたね。BL時代劇と言っていいかな。
従来であれば、近代以前が舞台の場合は、男色と呼ばれて、金や地位ある男の日陰の趣味の一つ、あからさまにするべきではない、という扱いだったし、実際の風潮や人々の意識もそうだった。
時代の変化がもたらした結果だとは思うけど、このドラマはちょっとやりすぎの感があるかなあ。
どこが違和感といって、当人たちの純愛はいいんだけど、それを周りが何のジレンマも感じず当たり前のように理解して受け入れて応援する、という点。
こういう意識って、現代まで、当事者たちの長い苦しみや闘いの歴史があって、社会の私たちも何度も何度もそれに接して学習して、今やっと勝ち取ったもの。
そういう人間の大切な歴史のプロセスを無視して、ただ、今流行りだから作りましたっていう時代物ってどうなの、と思う。
ドラマ一般に言えることだけど、その時代の人間の感覚を無視して、現代の視点で、とか現代の意識感覚とかで時代物作る、というのは、すごく疑問がある。(今、それがとても多い。)
現代人と過去人とは違う。
「昔も今も人間の思うことは同じなんだ」という感慨は、基本的な人間の性(さが)についての話であって、社会的な意識という点では、何百年前、千年前の人間と現代人は、決定的に違うのが当然。
トランスジェンダーについても同じ。
まあ、秀作が並ぶNHK時代劇の中では、一話ものでお軽いヤツだったけど、もうちょっと丁寧に作って欲しかったね。
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