ドラマが始まる前から、「とと姉ちゃん」だから「おやじっぽい女性」の話なんだろうと思ってました。 とと=おやじ 姉ちゃん=ギャル と勝手にイメージしてたのですが、実際始まってみたら「ギャル」ではない感じですね。
家族を養うおやじ代わりの姉ちゃん。男っぽいのではなく「おやじっぽい」。そこは確かにブレてないと思います。押しが強すぎて引いてしまうこともありますが、サバサバして引きずらないところは見ていて気持ちが良いです。
食べ方は、会社や友人等のつき合いで外で食事をとる人ならわかると思うけど、いろいろな人がいるよ。箸で食べ物を掴んで箸を天井高く上げて口にもっていって食う人もいるからね。食い方がおかしいと思っても本人に面と向かって言えないほとんどだろうね。本人に言っても喧嘩になるだけだし、なんでも思ったことを言ってもいいわけじゃないからね。
常子の食い方に指摘している人がいるけど、私もそれほどは気になりませんし、そんか激しい怒りも全くないですね。それよりも、とんねるずの食わず嫌いで芸能人の箸の使い方がおかしい人のほうが気になります。
感想の否定はNGだけど、明らかに間違った解釈や断定して否定することに対して(この時代に○○はあり得ない、時代検証がいい加減)などに対して
反論されるの仕方ないと思います。
エピ回収されてないと書くなら具体的にどのようなことか書けばいい。
前作、前前作の肯定の絶賛は良い感想もあったでしょうが、それ以外は酷かった。まれはお茶の間で批判に文句言っていてお茶の間での削除が酷かったし、あさが来たはひとこと文と短文の星5がとても多かったよ。
また、Yというサイトから点数の上げ下げのために来ている人間がいるのでしょうね。
また無理矢理前作を出して来ての、とと姉ちゃん上げ。
前作のヒロインに苦労が見え様が見えなかろうが関係無いだろうに
本家の数人はいつまでこれを続ける気だろう。
あ〜やだやだ
ほんとに何なんでしょうね、あれって。
前作板から横すべりして来てるんでしょうが、ここには、前々から住んでいて執着的な投稿を繰り返す人が何人かいます。
まあ、ネットにはそういう人はよくいるものではあります。
ここは、少人数だから、そういう人が目立つんですよね。書きやすい半面、そういう悪い点がある。
それがわかっていれば十分。たぶんその人はやめません。放っておきましょう。
比較して書くことは禁止でないのだから、比較について執拗に文句を言うほうもいけないでしょう。それにあさが来たで出た批判をとと姉ちゃんにトレースして批判しているじゃないですか。比較はダメだと言い、それについては何も言わないのですか?
比較なんて昔からやっていたわけだし、今まで比較して書いてきた人間なんていくらでもいるよ。昨日今日にはじまったことじゃないよ。
あれは比較ではなく批判。比較であれば、中立で公正な文章になります。
中立で公正な文章になります。とありますけど、それこそあなたの思い違いだと思います。中立でなかろうが削除されもしないのは、管理人サイドから見て問題がないということですよ。本家で他のドラマを比べての批評があっても騒ぐ必要ないと思う。比較についてはお茶の間ができる前から散々言っていたんだからね。もうそういう比較について是非の話題はいらないよ。すでに本家で書けると結論がでているもの。
ここへは新参者なので、削除されるされないはよく知らないし、別にそのことについて議論するつもりはありません。
ここで比較を中立公正に用いている人は肯定・否定どちらの側にもほとんどいませんね。
まず今作を貶すか持ち上げるか、どちらかが目的ですから。
最近はないようですが、以前は今作を落とすために前作をやたら持ち上げるコメントが数多くありました。
仕方ないでしょうね。
好きならアラは見ないふり、嫌いなら徹底追及
これをやるから報復合戦になるんだけど
ある程度キツい表現を使いたい人は、自分の好きな作品にやり返されても我慢するべきです
今だに批判するという事は、それだけその朝ドラが気になっていて、素晴らしかったということだと思っています。
終わった朝ドラは、気になりませんから。
>ある程度キツい表現を使いたい人は、自分の好きな作品にやり返されても我慢するべきです
私は毎回きつい批判や重箱の隅批判を繰り返す人って
毎回批判しているのかと思ってた。ずっと同じような批判の仕方なんだもの。
今回はちゃんと根拠ある批判をしないと、やり返されるので、今までのようなやり方はできなくなった感じもしますけど。
一方的に強硬な批判を書きたいが反論はされたくない、というタイプの人が反論を避けられないメジャー掲示板から移って来てるんですよ
だからメジャー掲示板はすごく温和な感想が増えて荒れなくなりました
最近目立ってきたのが「ヒロインの食べ方が汚い」という批判
具体的にどう汚いのかを指摘できなくても
「個人の感じ方だから仕方ない」
と逃げられるからでは?
どうでしょうね。
以前は本家もお茶の間も、客観性が乏しく主観ばかりの視点が狭いことを言うだけ言うわりに他人から絶対言われたくなくて、もし言われた場合はワンパターンに人それぞれと言う人を良く見かけた気がしますけど、だいぶそういう人が減ってきた感もありますね。
上から目線の評論家さんが多いよ。ここも
本家で主観だけで批判を言い張っている人間の感想ってたいしたことないよ。
整合性が合わないと言いながら、ドラマのどの部分が合わないといった説明がまったくないんだもの。
難しい言葉をつかっていても説明ができていない批判がとても多いし、客観的な見方をした批判なんてなくほとんどが主観。
主観の批判ほど発言がおとなげないものが多いです。
そうですね。
それは朝ドラだけでなくどのスレも一緒です。
大抵の場合具体性がないですね。
例えば、最初の一行目で脚本が稚拙だから面白くないと書きながら、その下には演技力のことばかり延々書く人なんかも良く見ます。
難しい言葉もそうですね。
そういう単語を使っても読む側には誤魔化せることは難しいんですけどね。
私も最近は人それぞれという単語を見るとうんざりします。
前のほうを読むと、自分には何もないけど批判の批判ならかけるという人いましたよね?
批判の批判しかしないって、一番楽な気がします。
人の食べ方に品を求めてはいけないよ。
そこまでは他人に求めないものでしょう。
人それぞれのくせや,味わい方があるからね。
私の夫は家族がせんべいをバリバリ音を立てて食べるだけでも,うるさいと言って嫌がる人なんで困っている。
ドラマでは,おいしく味わう幸せが演技や表情に出ていれば充分ではないかと思う。
好きなドラマだったら欠点は気にならない、というのは
自分の子供のイタズラは「ちょっと元気すぎるだけ」
他人の子供のイタズラは絶対許さないというバカ親と変わらないんです
やられた側が黙ってると思います?
全員が同じような上品な食べ方をしたら、役柄の個性が出ないと私は思うのです。食べ方で人柄や育ちが何となく分かるから、このドラマに限らずそういう演出なんだと割り切って見ています。品のない食べた方をする場面があっても、そうそう、こういう食べ方する人いるよね。私はあんまり好きじゃないけどって思うくらいですかね。あまりに不快な場合はその後もう見ないこともありますが。常子の食べ方は上品とは言えないけど、個人的には美味しそうに見えるのでいいかな。女らしい食べ方ではなく、やはりどこか「おやじくさい」のかもしれない。あれが同じ年齢の男性という設定なら、気持ちよく豪快に食べる場面なんだろうなと思っています。
演出は、常子をオヤジっぽい人に見せたいようですが、
常子たちの「とと」は、決してオヤジっぽくはなかった。
話し方も食べ方も、落ち着いていた。
常子は、ととになろうとして、どこから、このオヤジのイメージを持ってきてしまったんだろう。
ととが亡くなったのは常子が小学校の頃でしたっけ。
その後、常子の周りにいた男性といえば、風来坊の叔父さんと浜松の工場の社長さん、あの三兄弟。そちらの影響の方が次第に強くなっていったんじゃないかな、なんて私は想像して楽しんでます。
つけたしです。ピエールさんの存在を忘れてました。
常子は中学校?(戦前の学校制度が理解できてない)
こちらの影響も大ではないかと・・・
すみません、更につけたしです。
成長と共に幼い頃のととのイメージが希薄になっていく中で、
仕事や戦争を通じて「ととが本当に伝えたかったこと」
を常子が気づくことがあるのではないかと、
そこに私は期待してるんですよね。
食べ方を見て育ちがわかるなんて言うのは昭和の時代のことだったような気がします。美子役の女の子のCMでのダイナミックな食べ方を見ると,女がどうとか育ちがどうとかなんて感覚じゃなくなりましたよね。みんな平等の世の中になって育ちがいいとか悪いとかもないでしょう。裕福な家庭の人だって箸の使い方がよくないひとは見かけます。
暮らしの雑誌をつくる常子さんが,いかにして優しく楽しい食卓を提案するのか気になりますし期待しています。
879です。
これは昭和初期の話なので、私としては当然そこは意識している気がするのですよね。
ととが亡くなった後に常子が出会ったおじさん達は、ととのような人ではありませんでした。でも、それぞれに温かく味のある方々であり、常子が女でありながら「ととになる」上で彼らから良くも悪くも影響を受けているという風に捉えているのです。そして「ととが本当に伝えたかったこと」が品のある食べ方だとは思っていませんし、常子の食べ方が不快と感じたこともありません。常子にはズッと豪快に美味しそうに食べて欲しいと思っています。
ととが遺した家訓のほかに、常子は3つの目標を立てました。でも、そのようなことを本当にととは望んでいたのか?ととの代わりになって欲しいという事は、妹達を嫁に出し、マイホームを建てる、そういうことなのか?この先を楽しみにしているところなのです。
竹蔵が言いたかったことは、自分の幸せを捨ててまで妹たちの面倒を見ろというわけじゃないと思うんだけどね。
鞠子、美子、大学や女学校をだしてやれば常子の後の人生は自由でいいんじゃないのかな?
モチーフの大橋鎮子はドラマの常子と同じことをしたのは真実ですよね?史実ネタバレここでは言えないけど。
遺族の行動を縛るような遺言を「妄執」と言うのでは
黙って死ねと言いたいですね
ととの遺言は私も常子を縛り付ける呪文のように思えて仕方ないです。
小学生に言うセリフではないし、プロポーズの週も何度かととの遺言のシーンが出てきて切なかった。
本当にととが言いたかったことがあっあっとしても、あの言葉だけで小学生に伝わるわけもないのに。
とと姉ちゃんは楽しく見ていますが、あのシーンだけは嫌いです。
881です。私もそう思います。
↓
>本当にととが言いたかったことがあっあっとしても、あの言葉だけで小学生に伝わるわけもないのに。
それだけに常子が頑張っている姿を見るのが切ない時があります。外で稼いで家族を養ってくれる人。とと亡きあと、常子にとってお手本となるのはそういう一般的な父親像しかなかった事が想像されます。父親として大事に思う事は、日々の生活や家訓を通じて子供にも伝わっていると、ととは思い込んでいたのかもしれませんね。でも、そんなわけないだろうと私も思う。プロポーズの時の回想シーンは私も呪縛のように感じました。ちょっと聞くと簡単に理解できるようで、実は子供には(というか大人でも)難解な遺言を遺したものだと思います。
竹蔵との約束は、常子が家族のために何かする上で説得力があっていいと思うよ。
大橋さんは父親が死んでから、自分で勝手に家族を守るや妹たちを嫁にやるといったルールをつくったらしいけど、それをドラマでそのまま再現してしまうと視聴者は、何で常子が自分を犠牲にしてまで家族を優先するのかがわからないといった人がでると思うよ。
竹蔵との約束というシナリオなら、常子が家族を優先するといったのもわかりやすいと思うな。
自分より家族を優先する人が暮しの手帖をつくったわけであって、大橋さんが家族を優先する人でなければ暮しの手帖も生まれなかったでしょう。
ドラマの常子も大橋さんのような考えでないと、ドラマが成立しないと思う。
885です。886さんのご意見、なるほどと思いました。
ただ、やはりととの遺言は子供には重かった気が私にはします。
それが不快でこのドラマが好きではないということでありません。
もう永遠に傍にいることはない遠い記憶の中の父になろうとする、常子のヒリヒリするような生き方を見ていると切なくなると時がある。以前は常子を見てイライラする自分がいて、見るのをやめようと思ったこともあります。なのに気になって、気づけば毎日のように視聴していました。その理由がどうにも分からなかったんですが、なんとなく自分の中で腑に落ちてきてイライラが少なくなり、この頃はちょっと面白くなってきたところなのです。
遺言のシーンは良かったけど何度も出てくるとしつこいと感じました。とと姉ちゃんは臨終のシーンがなく,ナレであっさりと語られるのがいいです。前作も好きだったけど,人が死ぬたびに臨終のねっとりしたお涙ちょうだいは何度もいらなかったですよね。
竹蔵の遺言はほんとキツイのは確かです。呪縛と意見がありますがその通りです。呪縛だからこそ常子が盲目のように妹たちを優先したりすることも正論となるのだと思います。呪縛がなかったら常子の言動に疑問が湧く人が多数でると思うよ。竹蔵の遺言はこのドラマのためにあるようなものだね。もし、大橋さんを知らない人が、呪縛のない常子を見たらなにがなんだかよくわからないと思うよ。この朝ドラは大橋さんを知らない人ようにつくられているんだよ。だから呪縛をわざといれたんだよ。
私は呪縛だとは思いません。「ととの代わりに家族を守って欲しい」この遺言は、常子の中で初めは守るべき父親との約束でした。家長と言っても年端もいかない女の常子が男社会の中で父親代理を務めるのは大変なこと。
でも、やがて大人になり小橋家の大黒柱として名実ともに「とと姉ちゃん」となった常子は、家族を守るのは父親との約束のためではなく、自分が心からやりたいことだと気づく。そして、無理してととになるのではなく、「とと姉ちゃん」として自分らしく家族を守る。その変化の過程はドラマでしっかり描かれていたと思います。
ととの遺言は常子にとって、自分を含め家族に向けられた父の愛情の証じゃないかなと思います。常子が家族を守りながら自分の人生を懸命に生きて行く力の源泉になっていると思いますよ。
ととの遺言は見る人によって「約束」だったり「呪縛」だったり、色んな見え方がするのだろうと思いました。約束でも呪縛でも、その人の感じ方次第で正解はない気がします。いづれにしても、この遺言があるから自分よりも家族を優先する常子の生き方に説得力が生まれている、というご意見には同意です。常子が今では家族のために生きることが自分がやりたい事だと思っているとしても、あの遺言がなければそういう心境になることもなく、自分のために生きているように思えるので。
私自身の印象としては「約束」という言葉では少々軽過ぎる感じがします。
でも、呪縛ではかなりホラーな印象があるし、適当な言葉が見つからないですね。でも、敢えていうなら約束よりも呪縛に近い感じですかね。
第一週、「常子たちの成長をもう見ることができない」「自分は死ぬだろう、女四人でこの世の中を生きていくことを考えたら不憫でならない」といったようなことを言っていたので、死期がせまった竹蔵は娘たちの成長を見守る自分の代わりがほしかったんじゃないのかな?と思いました。そして、その対象となったのが常子なんだと思う。
おでかけの件で美子とケンカになり、常子が妹たちは成長しているのだと学んだ場面を見た時、私はああ、これが常子がととになるってことなんだと思ったよ。
ととの遺言は父の愛情と思ってもいいし、呪縛だと思ってもどっちでもいいんじゃない?答えはなんとも言えないと思う。
でもね、仮に呪縛だとして、呪縛だからこそ、それが常子を支え生きていく道しるべになっているんじゃないのかなとも思います。
私はすべての呪縛が悪いとは思わないんだ。それによって人は何か新しい物を生み出そうと努力してがんばって生きていけるんじゃないのかなと思います。少し宗教に似ているかな?
ととの遺言がなかったら常子は自分の事を優先して生きただろうか?そうでもないような気がする。頑張って母を助け長女としてたくましく生きただろう。ととの遺言は父と娘の絆,常子のお守りのような気がする。家族四人が支え合って力強く生きていくための道しるべ的なもの。
家族を大切にする常子さんだから好きになったという星野さん。竹蔵のような武蔵であった。
私の実家も,割と早くに三人の子どもを残して父が亡くなりました。でも母が滝子ほどではありませんが気丈に店を守り,長男はお坊ちゃま育ちのままでおっとりしていて,結局店は継がずじまいで母の代で終わりにしました。昭和の終わりの頃です。
ドラマは,あの時代だからのとと姉ちゃんなのでしょうか?家や家族を大切にする考え方。保険も年金も福祉手当も整っていなかった時代。でも,鞠子美子を嫁に出すという踏ん張り方までしたのなら,偉大な婿をもらうという目標もほしかったと個人的には思います。
呪縛でも間違いはないと私は言ったが、常子がととの約束を受け入れたのは、ととが家族に愛情をもってせっしていたからだと思うよ。
ととがいなくなっていなくても、竹蔵から愛情をもらっていた常子は竹蔵と同じよう君子、鞠子、美子にも愛情を与えていたと思いますよ。
約束を受け入れたのは、ととからもらった愛情へのお返しであり、ととがいなくなった今でも常子は家族に愛情を注いでいると思う。
その思いを具現化したのがあの3つの「家族を守る」「鞠子と美子を嫁にやる」「家を建てる」の標語に現れているんじゃないのかと思うよ。
あと、ととになると決めた常子を見ている限りでは、ととの代わりをするのは苦痛だといったものは感じられないと思いますよ。
私は常子がととの言葉なしにととの代わりを自ら買って出たのならいいと思う。
あの思慮深い武蔵が、最後の最後に本来なら君子に言うべき言葉をまだ子供の常子に言い残したことが不可解。
呪縛ともとれる武蔵のあの言葉はなくてもよかったと思う。
長女として母を助け、妹たちを支える。そのような意味で自分よりも家族を優先する生き方であれば、ととの遺言がなくても常子ならばそれはしたと思います。でも「父親の代わりとなって家族を養おう」とまでは考えなかったのではないか。そういう意味で、もしととの遺言がなければ、常子は今よりも自由な選択肢を持って生きることが出来た気がします。
ととの遺言を常子は、家族を養う父親として「ととに任命された」と捉えているようです。家族を稼がなくてはならない、妹達を嫁に出なくてはならない、家族のために家を建なくてはならない、とまで考えている。これは、常子にとって、生きる目標や支えでもある一方、呪縛のような思い込みにもなっているように私は感じます。
ドラマの初期に、ととは「昭和初期の一般的なお父さん像」とはかなり違う父親だったことが説明されていました。なので「ととが常子に託したかったこと」は今常子が必死になってやり遂げようとしている事とは実は違っているのではないか?と思って見ています。そして、父と娘に生じてしまった「思いのズレ」がこのドラマのミソであり面白さに繋がっているように思うのです。
897です。すみません訂正です。
(誤)家族を稼がなくてはならない
↑
(正)家族を守るために自分が稼がなくてはならない。
私も約束は、大事な父との思い出とかけがえのない絆の様に受け取ってます。
常子が稼ぐことに躍起なのは、若さかなって。
常子がああいうアプローチなのもあの年齢の考えとして自然な風に個人的には見えます。
家を建てるとか妹を嫁に出すっていう目標は,常子がまだ小学生の頃に考えたものでしたよね。自分がととになったつもりで考えたほほえましい希望だと思っています。後半は家族のためだけでなく,仕事を通しての人のため自分のためが加わり,実りのある人生が描かれることでしょう。
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